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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録1) [読書・言葉備忘録]

kansonjiden2_1.jpg 自伝は出自から。明治20年(1887)生まれ。里親に育てられ、5歳で親元へ。両親は横浜市永楽町の遊郭の「台屋」(妓楼に収める料理。台の物の仕出し屋)を営業。数年後に「引手茶屋」に転業。廓界隈の風習、風情、芸事、物売り、祭り、子供の遊び、芸人・・・。寒村の秀逸な筆で、明治の横浜遊郭の暮しが絵に描かれるように浮かんでくる。

 「どこかで読んだ情景だなぁ」と思った。山口瞳の小説「血族」か・・・。山口は自分の出自調べで、母の生家が横須賀の公娼街「柏木田」の重松楼と突き止めて、幼児期を回想する。場所は横浜と横須賀の違いも、まぁ同じような暮らしがあったのだろう。

 7歳で日清戦争。明治36年、高等小卒。父の「商人に学問はいらん」で横浜・山下町の貿易商オフィスボーイから横須賀の海軍造船工廠の見習職工へ。日露戦争への戦備で昼夜勤務。同年末、「万朝報(よろずちょうほう)」の幸徳秋水、堺利彦は同紙が主戦論になったことに反発し、週刊「平民新聞」を創刊。明治37年、寒村少年は彼らの演説会に感動して社会主義協会に入会。

 寒村はここまで記し、社会主義運動の当初をこう振り返る。「日本の資本主義さえ未発達。平民新聞創刊当初の社会主義も未だ幼稚素朴。非戦論で結束した感が強かった」。明治37年、日露戦争。寒村は「横浜平民結社」を作って研究会、演説会などを開始するも、無職の身を案じられて満州軍倉庫庫手へ。日露戦役最年少(17歳)で内勤従軍。だが満州の冬に感冒。軍医の「子供にゃ満州の極寒は無理だろう」で内地後送。

 帰国すれば「週刊・平民新聞」は弾圧厳しく発禁続きで1月に廃刊になってい、明治38年4月、寒村は赤塗の箱車に社会主義啓蒙書を積み、伝道行商に旅立った。この伝道活動はすでに多くの青年達が実施。西村伊作の評伝本にも、彼が宣教師から買った自転車で紀州から京都まで伝道行商したことが紹介されていた。伊作が乗った自転車もランブラーだったか。(続く)


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