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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録ラスト) [読書・言葉備忘録]

kansonjisei_1.jpg 寒村は震災後の軍の暴走に身を案じ、長岡の温泉宿に潜んだ。大正13年秋、共産党解党。昭和2年、第二次共産党結成。寒村は福本イズムと徳田球一、佐野(学・文)らが信じられぬ。昭和3年、共産党員大検挙(1千名逮捕、3百人起訴)の「3・15事件」。同年12月、7党合同の「日本大衆党」成立。予想通り内紛続き。寒村は「もう何もかも面倒臭くなり(略)、服毒自殺を企てた」。自伝では数行記述で見過ごしたが、現代日本文学大系・第22巻には、堺利彦が「荒畑寒村の『自殺未遂』始末」と題し、遺書6通を紹介していた。場所は新宿1丁目の東京ホテル。カリチモン服毒も発見・処置が早かった。

 昭和2年末、雑誌「労農」創刊。共産党とは天皇制解釈にズレ。両派共に右派左派あって、ややこしいこと。昭和6年、満州事変勃発。昭和6年、反戦を叫び続けた師・堺利彦が死去。寒村の妻も軽症ながら脳出血。病状が良くなった昭和12年末、理由なき検挙。淀橋署留置場暮しで、刑務所暮しより辛い1年だった。戦時体制強化で、数年前の「労農」で治安維持法違反とか。昭和13年12月に巣鴨刑務所へ。翌年春に出所すると、留守を守ってきた妻の緊張が解けたか、昭和16年に死去。66歳だった。日米開戦。

 妻を亡くし、空襲を逃げつつ仲間の家を転々とする無収入生活。大島で東京湾汽船の食堂経営の旧友・石田勝三郎が帰京の度に小遣をくれ(石田とはいかなる人物や。大島や東海汽船の歴史調べをしたことのある小生にはちょっと気になる)、土木事業の小堀甚二が経済援助。やがて東京大空襲。

 戦後、労働組合運動を再開。寒村はスターリン嫌いになって「共産主義者なんか犬にくわれるがいい」と記す。終戦後の初総選挙で社会党から立候補して当選。再婚。昭和22年の2回目総選挙も当選。社会党140議席で第一党。「ブルジョア政党との連立内閣」で、当然のこと公約果たせず。今の民主党と同じですね。歴史はどこまで繰り返すのか? 議員を2期務めた後は評論活動。昭和56年に93年の生涯を閉じた。

 写真は現代日本文学大系・第22巻の「荒畑寒村」の項の口絵。60代に詠った「死なばわがむくろをつつめ戦いの塵にそみたる赤旗をもて」の直筆。これにて「寒村自伝」私的抄録終わり。


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