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辻まこと(1)松本清張「もく星号」3部作 [週末大島暮し]

tujimakoto1.jpg 荒畑寒村は管野スガを幸徳秋水に寝取られ、幸徳とスガは大逆事件で処刑された。辻潤は妻・伊藤野枝を大杉栄に取られ、大杉と野枝は甘粕事件で虐殺された。

 辻潤と伊藤野枝の子が「辻まこと」。ウィキベディアによれば詩人、画家、文明批評的なイラストで知られるとあり、その年譜に昭和27年(1952)、39歳。もく星号事故で小原院陽子が事故死し、西常雄と共にその遺品の宝石を採取した」とあって、腰を抜かすほど驚いてしまった。

 伊豆大島の裏砂漠へは2006年に「月と砂漠ライン」ができて、車で砂漠入口まで行けるようになった。ブッシュ混じりの坂道を抜けると、誰もがアッと息を呑む異様で荒涼たる三原山裏砂漠の景色が広がる。その砂漠とっつきに<「もく星号」遭難の地>の看板と碑(写真:看板上方に白い柱碑)がある。

 こう書かれている。「昭和27年4月9日、わが国最初の旅客遭難機となった日本航空<もく星号>は乗員4名、乗客33名を乗せ大阪経由福岡行きとして羽田空港を飛び立ちましたが、事故当日の天候は極めて悪く視界ゼロに近い状況であったため、この地に激突したとされています。乗客乗員37名がその犠牲になりました」

 松本清張は昭和35年に「日本の黒い霧」の一篇に「運命の『もく星号』」を書いた。その8年後、昭和49年に長編「風の息」(単行本は上・下、文春文庫は上・中・下)で、もく星号は米軍機に仮想敵機として攻撃「撃沈」されたと書いた。

 松本清張はそれでも満足できず、亡くなる直前の平成4年に『一九五二年日航機「撃墜」事件』を書いた。「風の息」に全面的に手を加えての改稿で、前作を破棄する・・・とまで記したが、満足できぬ無念を遺したまま逝った。同機には軍に接収されたダイヤがGHQに渡り、そこから闇ルートでダイヤ売買をしていた美女・小原院陽子が乗ってい、ダイヤが紛失した。三作目の同書には彼女の写真、渋谷の自宅室内スケッチも載っていたが、松本清張は新たに何を書こうとしていたのだろうか。小生は彼の謎解きに、当時の大島・波浮に米軍沿岸警備隊が駐留していたことを見逃したために迷宮に嵌ったと思っているのだが。ちなみに昭和39年(1964)の「島の新聞」に、波浮駐屯の米兵が磯釣りで海に転落した人を助けたという記事があり、彼らは随分と永い間波浮に駐屯していた。

 まぁ、そんなことで島に初めて来た友人には裏砂漠を案内し、もく星号墜落の碑の辺りで、この松本清張の話をするのが常になっている。話が終わった後で、必ずこう付け加える。「まだ散乱したダイヤがあるはずだが・・・」。すると誰もがキラキラと光るスコリア(火山噴出の黒っぽい軽石)に「おや、ダイヤかしら」と石拾いを始める。

 辻まことは、本当に三原山でダイヤを拾い集めたのだろうか。(続く)


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