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辻まこと(3)西木版:もく星号のダイヤ [週末大島暮し]

mokuseigou2_1.jpg 西木正明「夢幻の山脈」より、辻まことが三原山・裏砂漠で「もく星号」のダイヤを拾う場面。

 ・・・昭和27年、辻まことは西常雄と小原院陽子宅で明け方まで酒を飲み、彼女の急な思いつきで湯河原の温泉に行った。その20日後の4月9日、二人は小原院陽子が乗った「もく星号」事故を知って、銀座のバー「ルパン」で落ち合う。「陽子女史にはずいぶん世話になった。現場をたずね、お線香を上げかたがた、彼女の遺品を探してやろうじゃないか」 「早く行かないと、死体収容作業に携わっている地元の連中や、アメリカ軍の奴らに横取りされるかもしれない。よし、明日の夜の船で、大島に行こうじゃないか」。

 二人は12日午後10時、東海汽船・菊丸で竹芝桟橋から大島に向かった。元村の「商人宿」に投宿して、御神火茶屋から屍臭する現場へ。サン写真新聞を参考に陽子女史が横たわっていた地点で宝石探し。五日間に渡ってメンタムの缶がいっぱいになるほどのダイヤを回収。小原院陽子宅で留守を守っていた彼女の妹に手渡した、と書いてあった。

 さて、当時も今と同じ竹芝桟橋だったのか。大島町公式サイトを見ると「昭和28年に各島航路が竹芝桟橋になる」とあり、未だ竹芝桟橋は開業していない。松本清張の書にも「遺体は東海汽船の菊丸で月島桟橋に帰ってきた」とある。昭和11年10月29日、東海汽船の前身・東京湾汽船が越前堀(霊岸島)から芝浦埠頭に移転して新社屋(待合室など)・新桟橋の盛大な披露イベントを行っていて、橘丸が新埠頭から初出航している。竹芝ふ頭は戦後に米軍接収だが、昭和27年はどうなっていたんだろう。

 また「商人宿」もしっくりこぬ。ちなみに大島観光に火をつけた『波浮の港』ヒットは昭和3年で、昭和7年の観光客は15万人。翌8年には観光協会設立。当時の「島の新聞」には元村旅館組合の旅館広告がズラッと載っている。とうに観光島で「商人宿」はそぐわない。

 西木記述にはあれもこれも首を傾げたくなって、辻まこと本人記述に辿りたくなった。有栖川公園の東京都立図書館にある「辻まこと全集」(全5巻+補巻1)をひもとく他にないかと思った時に、ネット検索でそれが辻まこと「墓標の岩」に書かれていると判明。さらにそれは「三つの岩」と題された章の一つとか。改めて<辻まこと「三つの岩」>検索で、昭和41年、創文社刊「山からの絵本」収録とわかった。かくして新宿図書館で借りることができた。

 なんと「破棄」の朱印があるも、かろうじて保存のボロボロの書なり。しかし頁をひもとけば、そこには素晴らしい絵と文章が広がっていた。(続く)


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