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荷風の中洲(4)淫らな島 [永井荷風関連]

nakazu1_1.jpg 草森紳一『荷風の永代橋』では昔の中洲をこう説明。・・・江戸のはじめの寛永のころは、この一帯は「ミツマタ」といわれ、月の名所だったが、明和に入って、その一部が埋めたてられ、浜町先に「三俣富永町」なる「夢の島」が、とつじょとして生れる。たちまち舟宿や料亭茶屋が「夢の島」に乱立し、近くの両国の客を奪う。吉原が焼けると、ここにもその仮宅がうまれた。

 説明はさらに続く。・・・当時、もっとも人気を呼んだのは、中洲を舟でひとまわりしながら、その中で売春婦と遊ぶこと、つまり「舟まんじゅう」(お千代舟)という陰売形式である。その栄華の夢も、けっこう続いて十九年。ついにお上によって閉鎖を命じられるに至る。(中略) ・・・もとの川洲に戻され、ふたたび埋めたてられたのが明治十九年。いったん消えていた富永町は「淫らな島」中洲町として甦える。あらたな埋め立ての際、浜町(菖蒲河岸)と地続きにせず、左に男橋女橋を架けて、かつての「夢の島」の感覚と情緒を残そうと工夫した。

 草森文の出典元はわからぬが、金刀比羅宮の碑文が表の歴史なら、これは裏の歴史だろう。こう記してひょいと本棚を見れば陳奮館主人『江戸の芸者』(中公文庫)あり。よくもまぁ、こんな本を持っていたもんだ。

 ・・・江戸の女芸者は、吉原の廓芸者と深川遊里の羽織芸者(辰巳の方向ゆえ辰巳芸者)と、中洲あたりの町芸者の三種類にわけることができる。(中略) そして「町芸者の中洲芸者」の章を読めば・・・安永・天明にかけて江戸の町芸者はふえてきた。その典型は中洲の芸者だろう。中洲芸者の群居した中洲は深川に比較すれば日本橋京橋により近かったので、一時はひどく繁昌した。

nakasukouen_1.jpg ・・・安永元年(1772)に馬込勘解由が埋立を願出で、六年に完成して中洲富永町という新地をつくった。この新地には料理茶屋が大川の眺望や船着の便からして十八軒もでき、四季庵がその規模もっとも大きく、大小それぞれ水辺の粋な茶屋としてよろこばれた。しかし安永の頃に、江戸市中で一ヶ所に料理茶屋が十八軒も集まったところはなく、中州は一躍江戸の狭斜の巷となった。(略)・・・他に船宿が集まり、夏場には出茶屋が九十三軒もできた。中洲は新しいだけに手軽で安直、芸者も転び芸者が多かった。(略) ・・・説明は寛政の改革、天保の改革、吉原全焼などを経て、中州が息を吹き返すまでの長い歴史を説明。

 写真上は明治40年の絵図。男橋、女橋、そして水天宮に続く土州橋がちゃんと描かれている。写真下は現・中洲公園。中洲先端で左が隅田川、右は箱崎川埋め立ての首都高。


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