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昌平橋から筋違橋、対岸は聖堂 [くずし字入門]

syoheizaka1_1.jpg 「神田上水懸樋」を記せば、その下流へ続けたい。『絵本江戸土産』五編にも「昌平橋聖堂」あり。こう書かれている。

 右に出(いだ)せる筋違橋(すぢかひばし)と双(なら)び架るを昌平橋といひ西の方(かた)へ昇りを昌平坂といふここに聖堂あり大成殿(たいせいてん)にハ孔子及び十哲(じつてつ)の像を祀らるゝよし春秋釈奠の礼あり学問修行(しゆきやう)のものこゝに寄宿する本朝(ほんちやう)第一の学校(かくかう)なり

 相変わらず誇張描写の広重絵だが、眺めた位置は現「聖橋」辺りからだろう。ここから下流を望めば、今は地下鉄・丸の内線(お茶ノ水~淡路町)が横切り、その下流をJR総武線(秋葉原~お茶ノ水)が横切り、その向こうに赤煉瓦風「昌平橋」が見える。同橋辺りから下町(低地)になる。

hisirikarasyohei_1.jpg 「昌平橋~万世橋」右岸は今も明治の赤煉瓦が続いている。「筋違橋」とは? 「赤煉瓦」はいつ出来たのだろう?。 「江戸切絵図」には「筋違御門」(神田見附)前に「筋違橋」あり。家康が上野寛永寺へ詣でる際の橋(御成門)として寛文16年(1676)架橋。明治6年(1873)に神田見附を壊した石で、アーチ二蓮(眼鏡橋)石造り「万世橋」が出来た。明治45年に東京駅と同じく辰野金吾設計の立派な「万世橋」駅舎が完成して中央線始発駅へ。しかし大正12年の関東大震災で消失。赤煉瓦はその後「交通博物館」になっていたが、目下は昌平橋~万世橋の右岸一帯の赤煉瓦が商業施設で残されている。

 一方、上流側・御茶ノ水沿いの淡路坂は、ニコライ堂を背に今春、ガラス面の超高層ビル(sola city)が完成して様変わりした。今月7日に記した通り「蜀山人終焉地」の史跡看板も新たになった。最晩年の蜀山人こと大田南畝は「鍿林楼」から日々眺めただろう対岸の湯島聖堂。ここも関東大震災で消失も「入徳門」(宝永元年・1704)は無事。他は鉄筋コンクリート造りで復元だが、黒い建物で江戸当時の俤を伝えている。

syoheizakafude1_1.jpg 交通量の多い外堀通りだが、ここ「聖橋」に立ってグルッと周囲を眺めれば江戸、明治、昭和、そして平成が凝縮されているようで、時を忘れる。

 くずし字を写し書くも、筆字がうまく書けぬ。こう記せば、にわかに子供時分に「習字塾」に通ったことを思い出した。60年余振りの筆で、うまく書ける筈もない。あの頃は多くの子供らが習字塾に通ったものだが、今の子供らは端からキーボードなんだろう。


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