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関口芭蕉庵(明治) [幕末維新・三舟他]

basyouan1_1.jpg『絵本江戸土産』の次に山本松谷画の「目白台下駒塚橋の景」を見る。東陽堂刊『風俗画報』掲載の明治30年代の作だろう。神田川対岸の目白台左側が「蕉雨園」で、その奥が「椿山荘」。神田川の巾を広くし、7㍍も深く掘り下げて垂直護岸にすれば、ほぼ現在の景色になる。

 

 昭和初期の写真を見ると、駒塚橋下流の大洗堰はすでに撤去され、護岸工事が始まっていた。その後も徐々に改修工事が行われ、昭和33年の狩野川台風の洪水から本格整備開始とか。次第に現在の姿になったらしい。

 

 さてこの地は俳句好き、広重「江戸百」好き、神田川好きサイトでさまざまに紹介されているが、あたしは江戸から明治になっての大変化を、景色ではなく、この地の持ち主らに注目した。一体どうやって私腹を肥やしたのか、山県有朋が「椿山荘」(一万八千坪)を、田中光顕が「蕉雨園」(六千坪)のオーナーになっている。共に長州、土佐の尊王一途。

 

貧しき山村の働き手が徴兵され、仕送りもできぬ僅かな給金(数円)で西南戦争を生き抜いた近衛兵ら300余名が我慢できずに立ち上がったのが明治11年。明治政府は躊躇なく53名を銃殺刑し、何事もなかったように天皇行幸を続けた。これが「竹橋事件」。(詳しくは澤地久枝『火はわが胸中にあり』)。比して陸軍の大御所・山県有朋の給与は1700円だったとか。

 

basyou_1.jpg半藤一利『山県有朋』に給与詳細が書かれている。…目白台の一万八千坪の土地を二千円で購い、みずから指揮して造園し、椿山荘と名づける宏大な邸宅を建てていた。(中略)。参議として五百円、陸軍卿の五百円、陸軍中尉の四百円、議定官の三百円、計一千七百円が山県の月給なのである。

 

長州・萩の足軽以下だった山県有朋は、奇兵隊から明治維新で成り上がった。その金銭欲・権力欲は異常だったとか。天皇を「現人神」にすべく、かつ自身の権力拡大に邁進した。「軍人勅諭」「教育勅諭」「大日本帝国憲法」「治安維持法」等々。その実現に障害と思えば躊躇なく近衛兵も銃殺刑、自由民権派追放、大逆事件の裏にも彼がいたという。いや、彼がそのために築いたシステムによって日清・日露戦争、やがては軍部暴走へ至っている。その裏で彼は狷介爺さながら独りこつこつと「椿山荘」を、京都の別荘・無隣庵、大磯・小淘庵、小田原の別荘・古稀庵などの造園趣味を愉しんでいた。

 まぁ、あたしが明治生まれなら、この絵の神田川ででぇこん(大根)でも洗っているオバさんの亭主ってところだろう。その大根洗うかかぁの背が蕉雨園。これまた土佐勤王党出身の幕末暗殺史に欠かせぬ田中光顕の持ち物になった。彼もまた賄賂疑惑で政界引退とか。

 そんな彼らがいたからこそ自然が守られたという意見もあるが、彼らが生んだ「現人神」、皇国陸軍が後に大暴走した。昨日15日は終戦記念日。写真下は「芭蕉庵」のバショウ。


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