SSブログ

へたも絵のうち=熊谷守一(2) [スケッチ・美術系]

kumagai3_1.jpg 熊谷守一は明治13年(1880)生まれ。おや、五姓田義松の渡仏年だ。藤田嗣治より6歳先輩。父は製糸工場経営から初代岐阜市長、衆議院議員になった孫六郎。守一は父晩年(45歳)の子。4歳で生母から離され、岐阜市の女工400名を有する製糸工場隣接の元旅館の屋敷へ。妾二人が同居で、彼女らに育てられる。大人等の愛憎や損得の醜い姿を見ながら育つ。

 明治33年に東京美術学校・西洋画科専科入学。黒田清輝や藤島武二らに習う。同期に大島を背景にルネッサンス風肉体美の男が漂流船に立つ「南風」を描いた和田三造、裸の漁師らが獲物を肩に行進する「海の幸」を描いた青木繁ら。熊谷や青木らは黒田清輝と彼の師コランがアカデズム系ゆえに評価せずも、黒田は彼らに自由に描かせたとか。

 熊谷2年の秋に父急逝、破産。熊谷の卒業制作は「自画像」。他は文展に出品拒否された「轢死」、入選の「蝋燭」。暗く重くパッとせず。卒業後は樺太調査隊帯同の絵記録係2年。故郷で日傭(ひよう=切り出した木を川で運ぶ仕事)など。35歳で東京に戻るが「二科」出品の他は描かず、働きもせず。余りの極貧を見かねた友人らの援助で暮す。

 42歳で結婚。次々に子を設けるも、絵を売って生活することを知らず。絵に値が付いて売買されるのも理解できない。極貧ながら多数野鳥を飼い、好きな機械修理やチェロを弾く。45歳、次男が亡くなった時に、思わず亡骸を前に絵筆を握った。感情が筆跡・色に溢れた傑作。

 同年、新宿遊郭裏に「二科研究所」ができ、友人らの計らいで〝主任〟。週一の指導報酬で家賃が払えるようになる。妻が実家から得たお金で現・美術館の地に家を建てるも家財道具なし。植物を育て、虫や鳥と遊ぶ日々。余りの無欲・極貧に、周囲から援助の輪が広がる。個展の手配、コレクター出現。薦められるままに書いた書や墨絵が大好評。帰国中の藤田嗣治とも共同展。58歳にして、初めて絵を売って生活することを覚えた。カット絵はチェロを弾く熊谷翁の写真より。次は彼の絵について。(続く)


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。