SSブログ

新聞発行とグラバー商会のヒコ(2) [青山・外人墓地]

hiko1_1.jpg (2)から吉村昭著に加え近盛晴嘉著『ジョセフ・ヒコ』も参考にする。ヒコは「咸臨丸」を見送った後に「自分の道を歩もう」と領事館を辞職。貿易業に励むも井伊大老事件(桜田門の変)で、横浜まで攘夷暴徒の恐怖が迫った。彼も命を狙われ、逃げるように渡米。

 リンカーン大統領に謁見、正式な領事館通訳官に任命されるが、米国も南北戦争で人心荒れ放題。文久2年に帰国、横浜へ。日本でも生麦事件、イギリス公使館焼き打ち、翌年は長州と米国艦交戦。彼はワイオミング号から下関砲撃を見る。

 世情が落ち着けば、交易は活発化する。彼は欧米情報に機敏に反応した商売を展開。日本商人のために外国新聞のダイジェスト和訳新聞を発行。日本語下手の彼は、ヘボンの和英辞書作りの助手・岸田吟香の編集協力を得て月2回の新聞を発行。手書きから木版刷りへ。「海外新聞」は26号まで。止めたのはヘボンの辞書原稿完成で、上海で印刷のために岸田が横浜を去ったためらしい。

 ヒコはこの横浜時代に、岩亀楼の妓を落籍していたと近盛著にあり。岩亀楼は現・横浜スタジアムの地にあった港崎遊郭で最も立派な楼。偉人の妾を〝らしゃめん〟と言ったとか。慶応2年、横浜大火(遊郭も全焼)。ヒコは横浜を後にし、米国に帰る知人の商社を引き継ぐために長崎へ。

 長崎の交易はグラバー商会が仕切っていた。同商会が佐賀藩の高島炭鉱を共同経営したく、それを手助けしたことで同商会にも所属。薩長への武器調達にも奔走とか。明治になるとグラバーは政府依頼で造幣機を香港より輸入で、ヒコはその扱いも担当。大坂造幣局創設。だが武器商売がなくなったグラバー商会は破算。

 明治5年、井上馨の勧めで大蔵省・会計局へ。日本語不得手で自然退職。神戸での事業は順調で、明治10年に(1)冒頭で紹介の鋹子と結婚。浜田彦蔵になる。明治21年、東京・根岸に移転。翌22年に原町に新築転居。体調悪く隅田川沿いが身体にいいと本所横綱町に転居。明治30年、心臓病で逝去。享年61歳。新聞見出しは「アメリカ彦蔵死す。日本で新聞の創設者」。

 吉村昭の小説は時代考察は入念も、ヒコの人間像には迫っていない。ヒコを軸に海難による漂流民群像を、また日米の激動に翻弄された幕末~明治を描いたように思う。これは小生の邪推だが、江戸っ子の著者は当然ながら薩長嫌いで、ヒコ愛着には至らなかったのだろう。

 昭和39年、有志によって「日本の新聞百年感謝奉告祭」が青山墓地で行われたそうな。明治情緒漂う外人墓地に、時としてこうした〝今の風〟も吹く。次回は真新しさで異彩を放つ「F.W.ストレイジ」の墓を見る。


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。