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近代外科の礎、スクリバ博士 [青山・外人墓地]

scriba1_1.jpg 外人墓地のなかでやや異彩の一区画に大墓標四つ。中央に「Julius Karl Scriba」(ユリウス・カルル・スクリバ)と読み取れる。右の墓標はカタカナで「エミル・スクリバ之墓」。左は「日本医科大学教師フリッツ・スクリバ之墓」と「ヘンリー・スクリバ之墓」。

 以下は、鹿島出版会『お雇い外国人ー医学』(石橋長英・小川鼎三著)の「ユリウス・カルル・スクリバ~日本外科学会の恩人」の項を参考にする。なお「カール」表記も多いが、ここでは同書の「カルル」とする。彼はヘッセン大公国(後にヘッセン民主国~今はドイツのヘッセン州。中心都市はフランクフルト)の1848年生れ。ハイデルベルグ大学で医学と植物学を修め、普仏戦争(1870~71のフランスとポロイセン王国の戦争=独仏戦争)では傷病兵を手当て。ベルリン大学で研究生活。

 明治14年(1881)、東京大学の前任者シュルシェの後を継いで外科教師として来日。以後1901年まで20年間にわたって在任。「内科べルツ・外科スクリバ」と並び称された。外科の他に皮膚科、梅毒科、眼科、裁判医学も教えた。アジア各国からも彼の診断を求める方が来日したとか。明治24年(1891)の濃尾大地震では医局員を率いて210余名を治療。明治34年(1901)に東京大学の教職を退き、聖路加病院で外科主任。1905年、56歳で病没。勲一等を授与された。

scribaa1_1.jpg 東大構内と群馬県草津に「べルツ博士とスクリバ博士」の胸像あり。プライベートは神谷ヤスと結婚し、三人の男子を設けた。長男フリッツ(病没)、次男エミール(病没)、三男ヘンリーは「須栗場」姓ゆえ帰化したのだろうか。狩猟好きで日本で最初にシェパード犬を飼うなど、多趣味だったらしい。似顔絵はまた趣を変え、すこしゴッホタッチで描いてみた。


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