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福沢諭吉のシモンズ墓碑銘 [青山・外人墓地]

Simmons1_1.jpg 青山・外人墓地のデュアン・シモンズの墓碑銘は、彼に発疹チフスを治してもらった福沢諭吉が記していた。以前は墓標左右に灯籠があったが今はなく、どうしたのだろうか。まずは碑文解読を試みたが、写真からの判読は困難で途中断念。

 調べると『福沢諭吉全集・第19巻』(同巻初版は昭和37年)に収録とか。同書は新宿の図書館にはなく、都中央図書館(閉架)にあった。その数頁のコピーを得んと再び同館へ。シモンズの経歴・業績は後にして、まず墓碑銘を読んでみる。

 「ドクトル・セメンズは米国ニウヨルク州の人なり。千八百五十八年日本に渡来し、横浜に医業を開て内外人に治を施す(同書には「治」の次が〝一字破損〟とあるも、字間は普通ゆえ音読みだろう)。〇〇(二字破損)少なからず。同港十全病院(後の横浜医科大学)の如きも其開基に係り、親しく後進の医士を薫陶したるのみならず、間接に其風を四方に伝へ、〇(破損)我医学社会の眼を開きたるは、之を称して日本医道の恩人と云ふも争ふべからず」

yukitihibun3_1.jpg くずし字に旧かな。旧字・異体字・楷書・行書混じり。加えてシモンズはセメンズ、ニューヨークはニウヨルク。明治22年の書は〝いとをかし〟。ちなみに遣われていた「くずし字」を書き出した。先を続ける。

 「ドクトルの平生、私徳清潔、人或は之を一見して其厳酷無情を咎むるものなきにあらざれども、退て其内部を窺へば心情の優しくして人を愛するは実に天性に出でたるものにして、殊に其出色絶倫の徳は北堂(母堂)に事(つか)へて孝行の一事なり。北堂高齢八十に近し。ドクトルは片時も其左右を離るゝこと能(あた)はず、食を進め遊楽を共にし、一日も楽事の多からんを工風して怠ることなし。」

 福沢諭吉は二歳で父を亡くし、母お順が五人の子を育てたそうで、彼の〝母想い〟も有名らしい。〝出色絶倫〟は福沢の常套句。墓碑銘はここで三分の一。墓碑銘としては長文過ぎる。石工も大変だし、墓標も巨大にならざるを得ん。福沢諭吉はそういうことに気がまわらぬ男だったと推測した。

 「蓋(けだ)しドクトルが其性格の厳格なるにも拘はらず、人に交はりて言語粗ならず顔色温和にして正しく交際の紳士たるは、内に存する孝徳の外に溢れるものならんのみ。又ドクトルは日本を思ふの心常に浅からず、在留前後三十年の其間に日本の事を視察して怠らず、日本は恰も第二の本国にして、畢生(ひっせい=生涯)の心事(しんじ)は唯日本国人の利幅を進め日本に固有の文明の新面目を世界中に明にせんとするに在るのみ。殊に医の業たるや、下は最下等の貧民より上は最上等の良家に至るまで常に之に接するのみならず、深く内部に入りて人の家の裏面を見るものなれば、ドクトルの彗眼之を軽々に看過せず、其形を視て其情を察し、其視察の深切なること往々内外人の耳目を驚かすもの少なからず」

 これで半分。彼は勝海舟とは咸臨丸以来不仲だったそうな。勝のホイットニー墓碑銘の簡潔さに比し、福沢はかくの如く。「勝は粋で、福沢は野暮」と思った。『福翁自伝』を読めば、彼は自らを〝野暮〟と言っているから間違いなかろう。全文掲載の積りだったがここで止める。

 なお築地居留地に「慶應義塾発祥の地」碑があった。「慶應義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所がこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた~」その先も省略する。


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