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神奈川「双六の旅もいろはのかな川に~」 [狂歌入東海道]

kanagawae1_1.jpg 四作目は「神奈川」。狂歌は「双六の旅もいろはのかな川にあがるもたのし春雨の空」。意は「(振り返ると大繁盛の)神奈川宿が双六の絵のような神奈川にあがるのも楽しい春雨の空」。韻を踏んだ地口狂歌。

 迂闊にも「神奈川宿」を知らなかった。横浜の存在が余りに大ゆえだろう。横浜発展は幕末以後で、それまでは砂洲の寒村だった。神奈川県広報サイトを見たら「神奈川宿は五拾三次のなかでも五本の指に入る賑わいだった」と紹介。

 宝永堂版は「神奈川・台の景」。台=高台。宿場は海際の高台で、下った所が「神奈川湊」で物流で繁昌。船乗りらの神奈川宿での豪遊多々で栄えた。料理も美味く、女も美しかったとか。弥次喜多もこう説明している。

 「爰は片側に茶屋をならべ、いづれも座敷二階造。欄干つきの廊下桟橋などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」。横浜開港当初の異国領事館などは、砂洲の横浜村ではなく神奈川宿辺りに設けられ、幕末・明治の人物らも神奈川宿で宴を張ったそうな。

kanagawauta3_1.jpg 宝永版に描かれた坂上から下三軒目「さくらや」を「田中家」が買って現・五代目。当初は千数百軒あった店は、今は「田中家」だけが残っている。同家サイトには、勝海舟の紹介で坂本龍馬の妻おりょうが、三十代の数年間をここで仲居として働いていたと記されていた。

 片やこの「狂歌入り東海道」は宿場の高台から下りきった辺りか。海の向こうに砂洲(横浜)が突き出て、その奥が本牧の岬だろうか。

 弥次喜多らは泊らず、茶屋の女の誘いに一杯ひっかている。だが焼き鰺が新鮮ではなく文句の一首。「味(うま)そふに見ゆるむすめに油断すな きやつが焼たるあぢ(鰺・味)のわるさに」。ベテラン・ゲイゆえ、女を見る眼が厳しい。

 なお横浜は横に張りだした砂洲を対岸の野毛村まで伸ばして、内海を埋立てて造られた。今、神奈川宿はすっかり横浜に埋没してしまった。


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