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金谷「大井川渡る金谷に旅ごろも~」 [狂歌入東海道]

25kanaya_1.jpg 第二十五作目は「金谷」。絵は再び大井川の渡し。今度は静岡側から見た図だろう。大名行列の渡しの準備中。渡った先が金谷宿。狂歌は「大井川渡る金谷に旅ごろも雲と水とに身をまかせけり」。

 大井川を渡らんとすれば、もう水や雲まかせのほかにない。弥次喜多らは金谷宿で休まず、喜多さんは日坂(にっさか)まで駕籠に乗った。途中で巡礼らに「お駕籠の旦那、一文下さい」の手に「つくな・よるな」と力んだ途端に、ボロ駕籠の底が抜けた。駕籠かき二人はふんどしを外して駕籠を補強。白いふんどしで補強された駕籠に乗る喜多さんを、弥次さんは「仏か科人(とがにん)のようだ」。

 喜多さん、しかたなく歩くことにした。ふんどしを外せばフルチンの駕籠かきだ。この時代は女性のパンツなんてぇのもなかった。そう云えば、東京オリンピック(昭和39年)の時は東京がうるせぇってんで伊豆で遊んでいたが、村の銭湯は混浴だった。昔はおおらかだった。

25kanayauta_1.jpg25kanayaup_1.jpg 金谷から日坂への途中「小夜の中山」に〝夜泣石〟あり。その立場の名物は飴餅とか。白き餅に水飴を包んだものらしい。弥次喜多らが餅飴を食っているうちに雨が強くなってきた。

 「爰もとの名物ながらわれわれはふり出すあめのもちあましたり」。ダジャレだな。ガイドブックによれば夜泣石のある寺の隣の茶屋で、今も「子育飴」が売られているとか。夜泣石は、ここで山賊に殺された妊婦の霊が泣いているそうで、飴は無事に産まれた子が水飴で育ったという伝説ゆえ。この伝説を馬琴が小説(『石言遺響』)にして一気に〝夜泣石〟が有名になったらしい。膝栗毛と馬琴の小説はほぼ同時代と言っていいだろう。弥次喜多らは雨の中を「日坂宿」へ至る。


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