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永井荷風の狂歌 [狂歌入東海道]

wakakikafu_1.jpg 永井荷風が大田南畝(蜀山人)の経歴調べをしていた。それを読み、小生も大田南畝関連書を読み出した。大田南畝は〝江戸狂歌〟の代表格。しかし荷風が詠んだのは狂歌ではなく俳句だった。今回、改めて荷風全集をひも解けば、なんと全集第十一巻目次に「狂歌」あり。わずか四首掲載。かくして荷風の狂歌を鑑賞です。

◉「てんてんとはぢもばちをと永調子うき世をよそのしのび駒かな」(わか家の稽古三味線の皮にかきける。大正四年画帖)。八重次(藤間静枝)と離婚し『日和下駄』を描いていた頃の作。「はぢ・ばち」の地口洒落に〝しのび駒〟が効いている。しのび駒=練習の時に消音する胴にのせる細長い駒。

◉「こし方の暮のかづかづ冬ざれてかゞむ背中の圓火鉢かな」(大正四年画帖)。この圓(まる)火鉢は、永井家にずっとあって、常に荷風の机邊(きへん)にあった。二首共に〝画帖〟とあるので、絵も見てみたい。

◉「時は今天が下しる雨聲會酒戰のてがら誰がたてけん」(大正五年五月「文明」)。この狂歌を調べて少し驚いた。隠棲好みの荷風だが若い時分には総理大臣主催の文学者との歓談会に招待されて〝誉なり〟と喜んでいた。

 同会は西園寺公望(きんもち)の主催。荷風の「雨声会の記」(全集第十四巻)によれば、それは大正五年で十回目の会。第二次西園寺内閣の総辞職が大正元年で、その後の開催だったのだろう。会場は柳橋「常盤」。荷風はその五年前(明治四十四年初冬)の会にも、川上眉山の自刃で空いた席に選ばれて出席していた。「文人たるもの感佩(かんぱい)せざらんとするも得べけんや。われ席上最も年少の後輩なり」。「筵に倍するも書生に黄吻一語感謝の意を述ぶべき辞柄をしらず」。よってこの手記を記念に残すと記していた。

 大正五年の荷風は三十七歳。三十一歳からの慶應義塾文科教授と「三田文学」編集を辞した頃で、隠棲する直前の〝栄誉〟と言えそう。ちなみに西園寺は正妻を持たぬ家憲で、四人の女性(新橋芸者二人と女中頭二人)と事実婚とか。女中頭に手を出すのは勝海舟も同じ。

◉「めてたさは翁に似たるあこの髯角も羊はまろくをさめて」(昭和六年色紙)。昭和六年は未年ゆえ詠んだ一首だろう。年賀色紙には髭と丸まった角の羊が描かれていたような気がする。

 カットは外遊時代の若き荷風。入手したばかり「iPhone6s」の〝メモ・手描き〟で描いた。


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