吉谷神社への参道に感動〈2017‐8〉 [週末大島暮し]
新宿区百人町在住だった早大教授で「ル・コルビュジエ」に師事した建築家・吉阪隆正。彼は昭和40年の元町大火のテレビ映像を観た夜に「大島復興計画書」を書き上げて大島へ届け、復興の希望と勇気を元町に届けた。(弊ブログ2月に6回シリーズで紹介)
「大島町史」にも昭和41年に〝吉阪教室による町づくり〟なる文言あり。彼らは「都市計画」と同時に建築家集団ゆえに島南部(例えば波浮小学校)の建物など多くを手掛けたらしいが、実際にどの建物の設計をしたのかは小生調べでは確証を得るには至らなかった。
その中で「復興計画書」に図入り記載され、かつ多数建築家らが吉阪隆正について語った膨大な「You Tube」資料にも「吉谷神社への敷石参道」も彼のアイデアだったとあった。それは町づくりにおける海岸から神社へのドラマ性の演出で、敷石は都電廃止で不要になった御影石を利用とか。
都電史をみれば、銀座を走っていた都電も同時期に廃止ゆえ、この参道の御影石に銀座の敷石が混ざっていたように推測してみた。さて、本当にその敷石参道はあるのだろうか。この眼で確認したく元町をちょっとワクワクしながら歩いてみた。
「あった、あった、確かにあった」。
計画書通り御影石の参道は、海岸沿いの道、現・観光協会事務所の前、以前に何度か共に呑み、元町花火を屋上で楽しませてくれた夫妻の現・廃業ホテルと東屋のある小さな公園の間から石畳みは始まっていた。
あぁ、これが銀座を含めた都電廃止による御影石の参道だ、コルビュジエに学んで都市計画に情熱を燃やした吉阪隆正の痕跡だな、とちょっとジーンと胸が熱くなった。彼は同計画に日本初?の住民参加のワークショップを勧め、また世界初のボンネルフ設計(人間優先の車道で、後に真っ直ぐな車道に直されたらしい)など数々のユニークなアイデアを提案・実施。
小生なら参道下に、この石敷参道の由来を記した案内板を設置し、観光客を吉谷神社へ誘いたく思うのだが、そんなことを思う島の方は誰もいないんだなぁとちょっと淋しかった。
また朽ちかけた元町図書館も、多くの資料に「吉阪プロジェクト」によるものとの記述があったので写真をアップです。
追記:グーグルマップの大島元町上空からの写真を見ると、この敷石だけが何かを訴えるようにクッキリと映っていた。
2017-06-07 05:45
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