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ジャポニスム17:北斎が学んだ新画法 [北斎・広重・江漢他]

hokusaisibaizu.jpg 「ジャポニスム15」文中、荷風文の「(北斎が学んだ新画法は)司馬江漢が西洋遠近法の応用」を引用した。また「彼が司馬江漢の油絵並に銅板画によりて和蘭画の法式を窺い知りしは寛政八年の頃」なる記述もあった。鍬形薫斎(北尾正美)からも勉強したのだろうか。この辺が詳しく知りたくなった。

 荷風『江戸芸術論』、飯島虚心『葛飾北斎伝』に加え、大久保純一『北斎』、永田生慈の『葛飾北斎』他を読む。

 北斎六歳の明和二年(1765)に鈴木春信が多色摺版画=錦絵を創始。この年、司馬江漢が十九歳で春信門下になる。神田の春信の借家に平賀源内が入居。近所の杉田玄白、宋紫石らも在住。錦絵は源内の発案との説がある。安永七年(1778)、北斎十九歳で勝川春章に入門。翌年に平賀源内が没。天明三年(1783)に司馬江漢が「銅版画」制作に成功。

 平賀源内で「おゝ」と気付く。この時代は蘭学を通じて西洋文化が入っている。十八世紀前期に中国経由で透視画法が日本に入って「奥村政信」が見よう見真似で「浮絵」(遠近強調のくぼみ絵、透視画)を制作したのが寛保三年(1743)。

 難しく云えば「平行遠近法」から視点を軸にした「幾何学的遠近法」へ。これには江戸中がびっくり仰天で、当時の事件簿に載っているそうな。但し遠景は日本の伝統的絵画の「平行遠近法」が残されていて「共存型」。これは芝居内容を伝えるために意図的なこと。

 そして同世紀後半(明和四年~寛政年間・1767~1801)に歌川豊春、豊国、北尾重政、北尾政美らの浮絵第二世代が西洋から輸入された銅板画を学ぶなどして「浮絵」を改善。具体的には写真のように透視線が消失点ならぬ「消失領域」に集約されるようになった。また遠近法強調に視線を後ろにして遠近空間を広くしている。

 北斎は春章入門後の二十八歳、天明七年(1787)頃に、歌川豊国「浮絵 歌舞伎芝居之図」を参考に左右対称一点透視画『絵浮元祖東都歌舞岐大芝居之図』(写真)を描く。※~と記されているが、小生が両図共に透視線を引いてみれば、目線は二階席の高さで、右側透視線は消失点に集中しているが、画面左側は豊国と同じく「消失領域」で視線がやや彷徨っている。北斎が「浮絵を改善」とは言い難く、それで〝浮絵元祖〟はおこがましい。彼の〝てらい〟性なりとわかる。北斎はこの頃から遠近法強調作を描き始めている。

 次に大きな画法習得は、中国画家・沈南蘋(しんなんぴん)が享保十六年(1731)に長崎に渡来して始めた南蘋派(江戸では唐画)から、色の濃淡でリアル写実(質感)の描き方を学んだ。

 そして銅版画習得へ。その代表作が『銅板 近江八景』や『阿蘭陀画鑑 江戸八景』(文化八年~十一年頃)。これは本物の銅板画(エッチング)ではなく、その描線(ハッキング)を模した作品群。大久保著では年代的及び普及度から司馬江漢の後の「唖欧堂田善の江戸名所銅版画」から学んだのだろうと推測していた。

 ★岸文和著では「(こうした経緯をもって)北斎や広重は〝浮絵という風俗画領域〟から、浮世絵を〝風景画領域〟へ進めた」と記していた。また同著では北斎の弟子・昇亭北寿「東都両国之風景」について、豊春とも春朗(北斎)とも趣を異にしていると注目。これは同著の81年前の荷風『浮世絵の山水画と江戸名所』で「空と水の大なる空間を設けたること(中略)山水画に光線を表示せんと企てたる事なり」と記していた。81年前の荷風洞察の鋭さをまた認識です。

 北斎は弘化五年(1848)の絵手本『画本彩色通』二編末に、腐食銅板画の説明を記しているそうな。なお司馬江漢は江戸の町屋生まれ。源内の鉱山探しに同行した奇人だそうで、ぜひ調べ知りたい人物です。

 次が油絵のお勉強。文化前期・中期頃に油絵風五作あり。石垣模様の縁取りで、ひらがなを横書きした英語風「ほくさいゑがく くだんうしがふち」。九段坂の急なお濠崖が〝板ぼかし〟で重厚な油絵風に仕上げられた作。銅板画と同じく、これも絵手本『画本彩色通』初編に荏油(えのあぶら)の作り方が絵入りで紹介されている。

 写生力、画題の広範さに加えて、これら北斎の西洋画法の試みもあって、印象派画家らから身近な存在として迎えられたようにも思える。次は『北斎漫画』に描かれた不思議な遠近法の謎について。(続く)

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