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東京裁判と「原田日記」(38) [千駄ヶ谷物語]

saiban2.jpg_1.jpg 徳川宗家が慶喜から家達に代わって、家達邸がGHQ接収で将校クラブ「マッジ・ホール」へ。小説『東京プリズン』では主人公・母が同所出入りで「東京裁判」資料下訳をし、娘は米国高校で「天皇の戦争犯罪」肯定のディベートに臨む。そして戦前の千駄ヶ谷のお屋敷住人らに「東京裁判」関係者が多いと知って千駄ヶ谷物語〟は「東京裁判」お勉強が強いられている。

 前回の続きです。第3章:弁護側立証を読む ~の鼎談で井上亮「弁護側が出した文章は公文館所蔵約2130件、頁数約15000。だが焼却を免れた資料ゆえ証拠能力に乏しかった」。清瀬副団長の冒頭陳述について保坂「彼の能力では無理だった。〝共同諜議〟の概念が分かっていなかったのではないか」。半藤「御前会議が共同諜儀にあたると思い当たっていたのではないか。それより欧米列強に圧迫、屈辱を受けてきたアジア諸国の歴史を代表して語れば良かったんだ」。さらに「そもそも国民や民間は、軍部が何を考えていたかなんて知らなかったし、軍事的知識もなかった」と弁護力不足を指摘していた。

 そして三人の同意見「ポツダム宣言受諾時の首相・鈴木貫太郎が『終戦の表情』で、天皇の意思に反して陸軍が誤った侵略戦争をしたと記しているのだから、彼に発言させたかった」。また三者は繰り返して「勝者の無制限潜水艦戦、無差別大空襲、原爆投下などを列挙すれば〝日本人は残虐〟だなんてレッテル付けも出来なかったはず」と悔しがる。

 以降は、第4章:個人弁護と最終論告・弁護を読む 第5章:判決を読む 第6章:裁判文書余禄~と続くが、〝千駄ヶ谷〟からどんどん離れるので、この辺で止める。最後に鳩森八幡神社の隣で在住だったジャズ評論家・久保田二郎著が「僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊雄男爵家」とあったので「原田日記」について記す。

 「東京裁判」の個人弁護段階で、検察側の反証材料で突然に「原田日記」が登場する。185件提出で140件も採用。同日記は最後の元老・西園寺公望のために私設秘書・原田熊雄が動き回って情報収集した「西園寺公と政局」と題された記録。原田が近衛秀麿夫人(泰子)を筆記役に口述。原田没後に里見弴(原田の親戚)が原稿整理。加筆もあろうし不正確情報もあったらしいが、400字×7千枚の膨大日記。

 原田は皇室や宮廷官僚とはいい関係も、政治家や軍人関係の話は〝また聞き〟が多かった。軍部は同日記を危険視。東条英機も原田を毛嫌いしていたとか。裁判では『原田日記』と『木戸日記』では違った記述があって、両日記比較による反証が多かったらしい。

 なお『西園寺公と政局』は全8巻・別巻1セットで岩波書店刊。『木戸幸一日記』は上下巻で東京大学出版会刊。両日記を較べ読むのがいいそうだが、小生にはそこまで読む気力がない。最後に米国高校で「天皇の戦争犯罪」ディベートに立つマリちゃんのために、その辺も少し勉強してみたい。写真は東京裁判被告写真(国会図書館デジタルより)

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