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久保田金四郎と榎本武揚(追加メモ1) [千駄ヶ谷物語]

daobosatu.jpg_1.jpg ジャズ評論家・久保田二郎が住んでいたのは、鳩森八幡神社に隣接の「東京都渋谷区千駄ヶ谷3丁目527番地」。当時の地図で確認すると、そこは「久保田金四郎』宅。彼の父だろう。『千駄ヶ谷昔話』では「代議士で白壁をめぐらせた大きな屋敷」とあった。

 久保田二郎は『極楽島ただいま満員』に、こう記していた。「父は大逆事件の幸徳秋水の弟子だった」。これは〝読み捨て〟ならぬ記述で、ずっと気になっていた。さらに「(この邸は)昭和20年5月の大空襲で焼けたが、五稜郭の戦いで有名な榎本武揚の屋敷だった」。

 彼の父だろう「久保田金四郎」をネット検索すると、意外なサイト『大菩薩峠』の中里介山・詳細年譜に辿り着いた。

 「明治36年(1903)19歳。北豊島郡岩淵小学校の代要教員になる。この頃、王子の扇屋なる料理屋の一室に久保田金四郎(後の司法次官)と自炊生活を始め、のち日暮里諏訪神社通りの森田重太郎(車夫)二階に下宿。幸徳秋水、山口孤剣、堺俊彦等の社会主義者と交渉」。

 そして中里は「平民新聞」に寄稿し、19歳で同新聞の懸賞小説に佳作入選。21歳、母の猛反対画で「平民社」を離脱して「都新聞社」入社。明治44年、27歳1月、幸徳秋水ら12名処刑「大逆事件」。大きな衝撃を受け、その影響が作品にも反映されているとか。ちなみに永井荷風は、同事件で隠棲志向を固めている。中里介山、29歳より『大菩薩峠』連載開始。同小説には、王子・扇屋の場面も出てくる。

 以上から久保田二郎の「父は大逆事件の幸徳秋水の弟子だった」と記す〝裏〟が少しわかった。さらに同年譜に「久保田金四郎(後の司法次官)」も気になった。社会主義傾向にあった青年が、その後に体制側、しかも司法官僚へ生き方を変えたらしい。さらに検索を続けると「愛媛県警察部長、東京地方裁判所検事、福島県警察部長、広島県警察部長」などの経歴もヒット。その後に司法次官になったと推測。残念ながらネット検索ではここまで。

enomoto.jpg_1.jpg 次に久保田金四郎邸が「五稜郭の戦いで有名な榎本武揚の屋敷だった」の記述も気になっていた。榎本武揚は徳川幕臣を率いて「五稜郭」で官軍と闘い、後に明治政権の中枢で活躍。

 阿部公房『榎本武揚』を参考に、明治政府での活躍を記せば「明治5年:北海道開拓使奏任出仕。7年:海軍中将、ロシア派遣特命全権公使。12年:条約改正取調御用掛。13年:海軍卿。15年:皇居造営事務副総裁、清国駐在特命全権公使。18年:逓信大臣。20年:子爵。22年:文部大臣。24年:外務大臣。27年:農商務大臣。

 福沢諭吉は『痩我慢の説』で勝海舟と榎本武揚に対して「痩我慢で隠棲すべきも、体制側で出世している」と非難。小生「青山外人墓地調べ」で、福沢諭吉のシモンズ墓碑銘解読から「勝は粋、福沢諭吉は野暮」と記した。福沢より江戸っ子の勝、榎本好きだが、福沢視点から見れば千駄ヶ谷の広大な敷地を有した徳川家達(慶喜から徳川宗家を引き継いだ)もまた隠棲が筋。勝の庇護下で育ち、表に出ることを抑えられていたが、貴族院議長など明治政府内でしっかり出世。

 福沢視線ならば、千駄ヶ谷は徳川家・幕臣ながら、明治政府で出世の人々の屋敷町だったとも言えそう。こうなってくると腰を据えて阿部公房『榎本武揚』を読みたくなってきますが、いずれまた~。「千駄ヶ谷シリーズ」で書き残したテーマを、気が向き次第〝追加メモ〟として記して行きます。写真上は『大菩薩峠』、写真下は榎本武揚。共に国会図書館デジタルコレクションより。

 うむ、榎本武揚で気が付いた。千駄ヶ谷邸宅組のほとんどが江戸・明治・大正時代に欧米留学・視察・駐在体験者だと。これもいずれ一覧してみたい。

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