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新井白石の前半生~2(追加メモ4) [千駄ヶ谷物語]

hakuseki.jpg_1.jpg 宮崎道生著『新井白石』(吉川弘文館)、藤沢周平『市塵』(文芸春秋)を参考に、新井白石の前半生のまとめ。

 父、13歳で江戸へ出奔。31歳で土屋利直(上総久留里藩主で徳川秀忠の近習)に召し抱えられて目付役に。古武士的風姿。母は奥女中(訳あり?)出身で歌道、書道、琴などの教養あり。白石は父57歳、母42歳の明暦3年正月の「明暦大火」直後に長男として誕生。土屋利直は白石を「火の児」と呼び、実子のように寵愛(これも訳ありそう)したとか。

 幼くして聡明。神童。剣術にも熱中。延宝3年(1675)に土屋利直死去。同家内紛から父は謹慎処分~浪人生活へ。父75歳、白石21歳だった。既に3人の姉も亡く、母も死去。白石は浅草在住。この頃、なんと!俳諧に凝って桃靑(芭蕉)と競っていたとかで、ちょっと驚いた。富商の婿養子、医業への勧め、縁談などあるも拒否。

 天和2年(1682)、白石26歳、奉公構えが解けて、5代将軍綱吉の大老・堀田正俊に仕える。その数か月後に父没。朝鮮使節来日で自身の『陶情詩集』の批判を乞い、序文などを贈られる。同年、大老が木下順庵を招聘し、白石(30歳)も順庵に入門。

 この年、白石は堀田家の藩士の娘と結婚。元禄4年(1691)35歳で嫡男誕生も、堀田正俊が城内で暗殺(謎)されて再び浪人生活へ。私塾で生計。元禄6年〈1693)末、順庵の推薦で儒者として甲府藩・綱豊(江戸桜田邸)に仕える。この頃の白石の家は、湯島天神の崖下辺り。元禄16年(1703)11月に大火、4日後に元禄大地震、その7日後も大火で湯島の白石家も焼失。。

 綱豊に『四書』や『五経』を講義。5年後に宝永元年(1704)12月に綱豊が綱吉の世継ぎに決まって、名を家宣と改名。白石48歳、西ノ丸御側衆支配「西ノ丸寄合」の身分へ。家宣に帝王学を進講。白石の教えは孔子の「仁」の政治。すなわち「仁政」+「詩書礼楽」とか。

 宝永4年(1707)5月、白石は雉橋外の飯田町に355坪の屋敷を拝領。11月に富士山大噴火。江戸に鳴動と黒い灰が降った。宝永6年(1709)1月に綱吉逝去で、家宣が6代将軍に。この時、白石は53歳。

 新体制は間部詮房が側用人。老中格・柳沢吉保の隠居願いを許可。大学頭・林信篤の職責大半を白石が担って500石の幕臣へ。「生類憐みの令」廃止と未決囚8831人を釈放。白石が教えた「文を以て治をいたす=仁政」、家宣の〝正徳の治〟が始まった。今回はここまで。専門家が記す人物評伝は、知識豊富ゆえだろう、話があっちこっちに飛んで、こうして時系列に短くまとめるのも(自分流の取捨選択)大変です。写真は国会図書館デジタルコレクションより。

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