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儒者の墓(12)林羅山の後半生 [朱子学・儒教系]

ieyasu1_1.jpg 慶長11年、羅山24歳。京都で宣教師ハビアン(日本人の元禅僧)と会談。地球図を見た羅山は、〝物皆上下有り〟の封建的身分制度が絶対ゆえ、地に上下なしの球体説を一蹴。(山鹿素行は儒教の〝天円地方説〟否定で、地球天体説を支持。朱子学を批判して赤穂藩に配流された。地動説は司馬江漢によって普及)。そしてキリシタン教理論破も試みる。これら逸話も羅山のイヤな性格の一端だろう。

 翌年春、羅山は排仏論者ながら剃髪して僧号・道春となる。家康が彼を儒者ではなく学僧として任用したためで、これまた立身出世願望ゆえと揶揄されている。羅山はこの頃に宅地と土木料を賜わる。慶長14年、27歳で12歳の亀さんと結婚。

 慶長15年末、明国の船が五島へ。駿府で家康に拝謁の際の幕府外交文書を羅山が記す。慶長16年、家康上洛時の「在京の諸大名に誓書を奉らしむ」法令三ヶ条を起草。

razanhaka_1.jpg かくして羅山は家康の側近として仕え出すも、家康は儒教奨励に至らず。慶応19年、家康71歳。生存中に豊臣氏を撲滅したく、その口実を求めているのを知り「孟子」解釈で〝討ってよし〟。家康の世になれば朱子学で人の上下は先天的に決定で〝革命思想否定〟。また羅山の〝阿諛迎合・曲学阿世〟の象徴として「方広寺の鐘銘事件」がある。家康が豊臣家財力消耗したく、方広寺大仏殿再建を秀頼母子に勧め、羅山は学識悪用で鐘銘に謀反ありと読み「大阪の役」へ。

 鈴木著は羅山を責め過ぎたと思ってか、次に彼の業績も紹介。家康命で羅山は「駿河版」なる出版事業に携わる。仏典の抄文集などの刊行で、これがなんと国内初の銅活字版。返り点や送り仮名が難しく、すぐ衰退したそうな。

 元和2年、家康歿で2代将軍秀忠へ。家康葬は天海・崇伝の神道二派が激論しつつで、羅山は蚊帳の外で駿河文庫詰め。堀著では羅山不遇期とされるも、鈴木著では弟・永喜が秀忠の側近で、兄弟で徳川家に仕える達成感のなかで学業充実期と説明されていた。

 元和4年、羅山36歳。江戸は神田鷹師町に宅地を賜るも京都生活が主。元和19年、家光が次期将軍と決まり、羅山は家光の御咄衆の一人として寛永元年に家光に拝謁。寛永3年、羅山44歳。家光の狩りに従行から次第に側近として幕政参与。

 寛永7年末、48歳。別邸として上野忍岡に5353坪、学校を建てろと費用200両を賜る。私塾・書庫を建て、2年後に孔子廟建立。建永9年、秀忠没で将軍は家光に。崇伝が病没で、幕府の政治・外交文書起草が羅山担当になる。寛永20年、天海没で羅山の地位・権勢強化。

 慶安4年、家光病没。4代将軍は家綱(11歳)。年号は承安へ。明暦2年、74歳。羅山の妻没で別邸で儒葬。同年9月、別邸類焼で同地が寛永寺附属となり、林家(三世・鳳岡)に牛込(現・山伏町)の2千坪を下賜。別邸の墓を牛込に改葬。

 平成30年、縮小された「林氏墓所」公開を小生も見学。このシリーズ、最初に戻って一区切りです。シリーズを通し、朱子学を幕府学問と定めた「寛政の改革」松平定信の時代が大きなポイントかなと判断した次第。写真は羅山の墓「文敏先生羅山林君之墓」。

 今、机上には小島毅『儒教が支えた明治維新』、土田健次郎『江戸の朱子学』、岡田武彦『江戸期の儒学』、白川静『孔子伝』、加地伸行『儒教とは何か』、島田虔次『朱子学と陽明学』、垣内景子『朱子学入門』がある。この辺のお勉強は始まったばかりです。

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