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堀田善衛『定家明月記私抄・続編』(小生抄1) [鶉衣・方丈記他]

hotayosie2_1.jpg 『続編』を読む。承元5年・建暦元年(1211)、定家50歳。土御門天皇(16歳)が譲位を強いられ、後鳥羽院寵愛の第3皇子・14歳の順徳天皇が即位。すでに宮中に女院10名ほど。宮廷の実権は藤原兼子(けんし)が握る。

 定家の姉が荘園二つを兼子へ遺譲約束(贈収賄)し、定家は念願の公家へ。同年末の日記に、定家が4年前に女児を生ませた「靑女(従女)病む」の記述あり。家で働く女性に手をつけるのは勝海舟と同じ。同年、鴨長明は鎌倉で源実朝と会い、翌年に『方丈記』完。

 建暦2年。有馬で湯治。脚気・咳病・膀胱結石(堀田善衛が後に記す『ミシェル城館の人』のミシェル・モンテーニュも44歳からの結石痛の記述多し)。建保元年(1213)52歳。鳥羽院勅命で定家邸の柳2本を持ち去られる事件あり。京都はすでに公家勢力失墜で、公家下僕や悪僧らが群盗化して殺伐とした状態。

 定家は「天下の悪事、間断なし」と記す。一方の鎌倉も血腥い権力争いと大地震。定家は実朝に和歌を教えているが、実朝の歌は「うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」(うばたま=黒・闇・夜の枕詞。八重雲=不透明層積雲か)。あっちもこっちも真っ暗闇じゃござんせんか~と詠っている。

 建保2年(1214)、定家は大納言・中納言に次ぐ参議就任。同4年、55歳で治部卿。自選全歌集『拾遺愚草』成る。侍従職を辞した後で「定池仮名遣い」と呼ばれる冊子で「お・を」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の使い分けを著わす。同年、鴨長明没。

sadaiezoku_2_1.jpg 実朝に嫡子生まれずで、上皇の子を鎌倉に迎えようとした矢先の建保7年(承久元年)、実朝暗殺される。鎌倉は北条政子(頼朝正室。夫死後は尼将軍)と義時結束で上皇に反発し「承久の乱」へ向かう。(先日にテレビで「承久の乱」新解釈を放映。それも参考にした)

 カットは堀田善衛。富山県高岡の廻船問屋(北前船、蒸気船も所有した老舗)の息子。中学時代に金沢の教会司祭宅で生活。慶応義塾仏文科へ(英語に加え仏語、独語習得か)。昭和17年召集も胸部疾患。27歳で東京大空襲。国際文化振興会の上海資料室に赴任。29歳帰国。34歳芥川賞。「べ平連」活動。38歳頃より作家会議や取材で諸外国へ。海外生活10年余。平成4年『堀田善衛・全16巻』刊。6年後に定家と同じ80歳で逝去。」昨年が生誕100年。

 それを記念した『堀田善衛を読む』(集英社新書を昨年秋に刊)。執筆陣は池澤夏樹、吉岡忍、鹿島繁、大高保二郎、宮崎駿。1918年(大正7年)生まれの堀田の影響を受けた方々は彼の息子世代(1940年代生まれ)とわかる。かく小生もその世代。

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