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ヒトラー3:世界大恐慌が二人の運命を変えた [政経お勉強]

toiuotoko.jpg 第一次世界大戦は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺された1914年の『サラエボ事件」に端を発した。光子の長男、3男は徴兵も、次男・栄次郎は肺の疾患で徴兵を免れ、恋仲の大女優イダの別荘に籠った。

 一方のヒトラーは、友人との生活ながら2度の美大受験失敗で出奔し、低所得独身公営下宿所で〝フーテン暮し〟。1913年にミュンヘンへ向かうと、オーストリア官憲から徴兵回避の手配書が廻っていて検挙。オーストリアの徴兵試験で「栄養不足で不合格」。

 1914年8月1日、再びミュンヘンに戻る。群衆がオデオン広場に殺到してドイツ参戦に湧き上がっていた。その群衆に中に興奮したヒトラーがいた。即、ドイツ陸軍に志願。『わが闘争』の〝バイエルン連隊への入隊〟項に「~8月3日、わたしはバイエルン国王ルードヴィッヒ三世閣下に直訴し、バイエルン連隊に入隊する許しを求めた。翌日にわたしの請願の答えを受け取った」

 林信吾著には、無名青年の直訴に返答があるワケもなく、翌日に返答郵便が届くほど当時の郵便事情がよいワケもなく、同著はかく都合よく嘘の記述になっていると説明。

 ヒトラーは9週間の軍事訓練後にベルギー前戦へ。英仏ベルギ軍と一進一退の激戦から彼は〝兵士〟に変貌した。1914年11月に上等兵。その1ヶ月に第二級鉄十字章。伝令に抜擢。彼は戦闘合間に破壊された村を水彩スケッチ、また詩も書いている。1918年、連隊から感謝状。兵卒ばがら第一級鉄十字勲章を授章。だが下士官としての指導者素質なく最下級伍長止まり。毒ガス弾を浴びて野戦病院送り。

gunsyunonakanokare_1.jpg そこでヒトラーは、ベルギー大本営が米国に講和を申し込んだと聞く。軍隊が頑張っているのに何てことだ!皇室エリート左翼勢力の奴らめ~という憎悪から、彼は「政治家になると決意」したとか。1918年11月、ドイツ休戦協定調印でオーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーの各共和国が成立宣言。1919年1月パリ講和会議、ヴェルサイユ条約でドイツに莫大な賠償金が課せられた。イアン・カーショー「人生最初の30年間、ヒトラーは何者でもなかった」。この辺から彼は変貌する。

 同年4月、ミュンヘンの小劇場で出演中のイダと共にホテル滞在中だった栄次郎(リヒャルト)は、深夜3時に赤腕章の武装兵に逮捕され、その場で釈放された。これはミュンヘンで繰り広げられていた社会民主主義と共産主義の「内ゲバ殺し合い」に巻き込まれたもの。ドイツでは次第に共産主義への拒否反応が広がって行った。

 栄次郎は第一次大戦で疲弊した欧州の復興再生に「統合されたヨーロッパ=パン・ヨーロッパ」構想を提唱し、自ら設立の「パン・ヨーロッパ出版社」から『パン・ヨーロッパ~ヨーロッパの青年に捧ぐ~』を1923年に出版。この時、未だ29歳。出版初年度に10万部のベストセラー。1924年のチェコ語版を皮切りの諸外国での翻訳本が次々と出版。日本でも鹿島守之助が翻訳。1927年に国際連盟協会も出版。1927年にはフランス首相ブリアンが「パン・ヨーロッパ連盟」名誉総裁に就任。

 だが良い事は続かない。1929年の米国ウォール街の証券取引所に端を発した大恐慌が欧州にも及んで「パン・ヨーロッパ」運動どころではなくなった。逆にヒトラーはこれを好機到来とばかりに大躍進した。全体主義、民族主義、ファシズムというのは国難を利用して勢力を拡大する図式がありそうです。

 写真はハラルト・シュテファン著/滝田毅訳『ヒトラーという男』(講談社選書メチエ)。同書掲載「ミュンヘン・オデオン広場群衆の中のヒトラー」が、森川覚三著『ナチス独逸の解剖』(コロナ社1940年、国会図書館デジタルコレクション)にも載っていた。

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