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森山大道の言葉を自分流に~ [スケッチ・美術系]

color_1.jpg 本『森山大道の言葉』に、こんな文章が紹介されていた。「僕はもう、外が気になってしょうがない。たったいま地下鉄の運転手さんが見ている視覚だとか、西口ホームレスの人が見ている光だとか、そういうものが無数にあるというのに、なんで自分はこんなところで写真の話をしているのかなって。イライラするんですよね。ああ、あれも撮ってないやって」。

 ソール・ライターは、そんな気持ちをひと言で「まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている」。彼の方が上手だな。森山大道著『写真との対話、そして写真から/写真へ』から〝核の部分〟を自分流アレンジで記してみる。

写真機は対象を等価的に、つまり複写・大量複製を目的に誕生した光学機械だ。その写真機でタブロー(Tableau)を生もうとする行為はまた別の話で、現在の諸相(現実)を原点の複写機的に撮ることも大事なのではないかな。その場所に自分が「居て・見た」という「極私的な記念・記憶」として撮ってもいいと思う。

他人の写真・ポスターなどの画像を、見たまま・感じたままに撮れば、本来の情報とはまた別の新たな現実が重なって二重性を帯びてくる。(写真機が本来的に持つ複写性+アルファーで、単なる複写とは違った写真になる)

世の中は常に、イノセント(できごと)とアクシデント(事故)に満ち、混沌・矛盾・欺瞞・嘘・錯覚にも満ちている。しかも「行河のながれは絶えずして~」で流れていることこそに普遍性がある。そんな流れの一瞬にヌエ(真実のようなもの)を掴むかの瞬間があって、それに惹かれて飽きもせずにスナップ写真を撮り続けることになる。(それは近所の街角にもあるから、わざわざ地球の裏側まで行く必要もない)

today's_1.jpg私は歩行中に「ノーファインダー」で撮っている。眼で撮るというよりも、身体全体で感応しながら撮っている。(氏がデジカメでカラー写真を撮っている姿をYouTubeで見たが、モニター画面で確認しながら撮っていた。あたしのカメラは落下事故で撮影時にモニター表示不可で完全ノーファインダーだ。PC伝送後に画像を見ている)

そうして生理的・感覚的に撮ると、自分がそこに身を置き、その場の空気感を反映した写真になる。(そう難しく考えることもない。ただ瞬間を撮ることが愉しい。そうやって街を歩き回ることが健康にもすこぶる良い~それでいいじゃないか)

人間は一日中、無数の映像を知覚しているが、そのすべての像に対して焦点が合っているわけでもなく、視点が静止しているわけでもない。(私は子供時分から近眼で、老いては老眼。常に矯正視力(眼鏡や白内障手術)で見ているわけで、裸眼で見れば「アレ・ブレ・ボケ」が自然なこと。しかも今のご時世、著作権とかプライバシー侵害も煩く、ボケていればその心配もない)

僕が撮り歩いている時は、シャッターを押すことだけしか考えていないので、全身が敏感なレーダーのようになっている。そのアンテナにピンと反応した時に、素早くシャッターが切れるよう、僕はカメラのストラップを左手首に巻き付けて、左手を絞るように吸い付けて眼=手が直結する体制で素早く撮っている。(あたしはもう2度もカメラを落とし、目下は不具合のまま撮っている。また小生はプロ写真家でも若くもないので、理想はライター爺さんのように気張らずにぶらり・ぶらりとゆっくり歩きながら撮れたらいいなぁと思っている)

スナップ写真の一方の雄・荒木経惟(アラーキー)はスナップ写真風のモデル活用例が多く、喜寿を経た歳になってセクハラ問題大噴出。その評価も凋落中。ここでは言及対象としない。

 写真は森山大道デジカメ写真集『カラー』(高額写真集はとても購えないから図書館本です)。写真下はあたしの好きな新宿南口の撮影スポット。傘や衣服が乱れに乱れる悪天候時に撮ってみたいと思うのだが、そんな日は家を出る気にもなれず、未だ実現していない。

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