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日本橋川(1)神田川との分岐「三崎橋」 [日本橋川]

misakibasi2_1.jpg 春めいて目的ないまま自転車に乗った。ややして「そうだ、日本橋川に沿って走ってみよう」。まずは神田川から日本橋川への分岐、飯田橋と水道橋の間の「三崎橋」へ。写真の正面に流れ行くのが神田川。右の橋が「三崎橋」で、ここより日本橋川が始まる。

 「三崎橋」に佇みつつ、神田川上流をざっと振り返る。水源は井之頭公園で、これに善福寺池を水源の善福寺川、暗渠化された桃園川、妙正寺川が神田川に合流。明治通りと新目白通り交差点下の「高戸橋」へ。「江戸川橋」を経て「飯田橋」辺りからここに流れ込む。

 あたしは神田川は「高戸橋」際マンションに一時期在住した。何階だか忘れたが広いルーフバルコニーがあって、眼下の神田川の小滝と魚道が発する川音が絶えず聞こえていた。コッカースパニエル種の愛犬がいて、高戸橋から椿山荘下までの川沿いが日々の散歩道だった。この辺の川の水は澄み鯉や水鳥が遊び、アユが遡上したと話題になり、春は桜の名所だった。

horidometizu1_1.jpg 昔の神田川(平川)は、日比谷入江に注いでいたが、徳川家康・秀忠による「江戸大改造=神田川開削」工事(完成は元和6年、1620年)で、神田山を掘って神田川を通し、お茶の水~万世橋~浅草橋を経て隅田川へ。これによって低地の日本橋辺りの洪水が解消。それまでの外堀が内堀にもなった。

 同工事で従来の日本橋川は、隅田川からの舟運水路、内堀となり、「三崎橋」から下流四つ目の「堀留橋」辺りまでが埋め立てられた。写真左は文久3年(1863)の「尾張屋版江戸切絵図・飯田町」一部だが、日本橋川が埋め立てられて途中でなくなっているのがわかる。

 そして明治36年(1903)、再び開削されて「日本橋川」と「神田川」がつながる。かくして現在の日本橋川は写真上のように「三崎橋」より始まる。写真の「三崎橋」上に飯田橋駅から水道橋駅へ走る中央線が写っている。そして残念なことに首都高速5号池袋線が護国寺~飯田橋を経て、ここより日本橋川沿い上を走る。これは東京オリンピックに合わせるべく用地買収を省いて川の上に首都高を造ったせい。無残にも花のお江戸の日本橋上をも被っている。江戸時代から続く川の風情、情緒を壊した道路行政の愚策。江戸文化を知らん役人の仕業。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』で「木端役人には愛想がつきる」と記していた。

 そう、椿山荘下の神田川際に「芭蕉庵」あり。芭蕉は29歳の寛文12年(1672)に江戸に来て、日本橋はト尺(ぼくせき、水沢友治郎、または太郎兵衛)宅に身を寄せた。彼の世話で芭蕉は神田上水の関口辺りの工事に従事したのが由来。実際にここに住んだかは定かじゃないが、広重『名所江戸百景』に「せき口上水水端はせを庵椿やま」が描かれている。さて、日本橋に向かって、もう少し走ってみよう。


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