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雑司ケ谷の御鳥見役・組屋敷は [私の探鳥記]

 豊島区立郷土資料館刊「生活と文化」研究紀要第16号掲載の秋山伸一著「雑司ヶ谷御鷹部屋に関する基礎的考察」に掲載の明和9年(1772)の雑司ヶ谷絵図を虫眼鏡で見れば「御鷹部屋」、そこから直結した道に門があって「御鷹方御組屋敷」が読み取れる。この絵図は同じく同館刊「ぞうしがや」の雑司ヶ谷村絵図(全体図)が掲載されてい、その部分アップであることもわかった。

 すでに「御鷹部屋」が現在の雑司ヶ谷霊園にあった事を記したが、そこから上(北)に一本道で「組屋敷」に結ばれ、そこは現在の東池袋交差点辺り。これで鷹匠系史跡ははっきりした。残るは肝心の「御鳥見役・組屋敷」がどこにあったかだ。改めて雑司ヶ谷村絵図全体図を見れば、解説文に農民の居宅一軒一軒の名前まで記載されているとあり、諸田玲子が「お鳥見女房」で弦巻川や幽霊坂のある雑司ヶ谷に「御鳥見役・組屋敷」を設定したと語っているが、ここにはなさそうな。

yureizaka1_1.jpg では「弦巻川と幽霊坂」を改めて確認してみよう。いま弦巻川は暗渠になり弦巻通りになっている。では幽霊坂はどこか…。同小説にはこうある。「坂道は左が本住寺、右手が中小の侍屋敷」。石川悌三著「東京の坂道~生きている江戸の歴史」の「幽霊坂」記述には…日本女子大の西わきを南に上るゆるい坂で、その東側にはもと本住寺とその墓地があった」とある。左の現在地図では不忍通りが目白通りに合流する辺り。そして 同小説では「幽霊坂」を抜け組屋敷の前の通りにでる…とあるから、それは現在の目白通りの雑司ヶ谷2丁目辺り。近くに弦巻通りもあるから、諸田玲子が「お鳥見役・組屋敷」に設定したのはこの辺りだろう。で、一軒一軒の農民居宅の名前まで書かれた絵図に「組屋敷」はないから、やはりこの小説の「組屋敷」はフィクションだろう。

 最後に全体位置を再確認。雑司ヶ谷霊園と鬼子母神がある。目白通りが不忍通りと合流した辺りに幽霊坂。弦巻通りもおわかりだろう。これで小説の「組屋敷」辺りの地理的把握が出来るが、この辺に御鳥見屋・組屋敷はない。「娯楽小説だものフィクションに決まっているでしょ」と言われてしまえばそれまでも、クーラー効いた部屋で美味しいコーヒーを飲みながら、こんな江戸探検の酔狂もよろしいようでございます。


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