SSブログ

ちょっと怪な平秩東作 [大田南畝(蜀山人)関連]

hezutosaku1_1.jpg 自宅から徒歩15分、明治通りと甲州街道が交差する辺りに煙草屋があった。間口8間、かなり大きい。何故そんなに大きな家かと言えば、かつて馬宿だったからだ。風に揺れる看板はこう書かれていた。「世の中の人とたばこのよしあしは けむりとなりて後にこそ知れ」。今から250年ほど前の噺だ。店主は稲毛屋金右衛門。学問好きで儒教面では立松東蒙、戯作・狂歌では平秩東作(へづつとうさく)と名乗っていた。

 明和6年(1969)、最初の「狂歌の会」のメンバー5人のなかに20歳の大田南畝らを優しく見守る43歳の平秩がいた。南畝の処女作「寝惚先生文集」の序文を平賀源内が書いているが、その労をとったのが平秩。源内と友達で、自身の「水の行方」序文は源内が書いている。源内友達から推測されるが彼もまた山師的匂いがする。「狂歌の会」発足の3年前に、江戸の浄土真宗の異端派・御蔵門徒のなかに信者として潜入してお上に告発(門徒は処刑さる)。勘定組頭・土山宗次郎がらみで源内と共に炭焼き事業を興して失敗。天明2年(1782)には上方へ、さらには蝦夷開拓に先駆けて江差まで行って越冬して「東遊記」を著したり…。一筋縄ではいかぬ怪しい煙草屋なのだ。

hedutu_1.jpg 絵は天明7年(1787)、彼が64歳で亡くなる前年に蔦谷重三郎刊「古今狂歌袋」に北尾政寅(山東京伝)によって描かれた平秩の絵。もう身体ボロボロで眼もよく見えねぇ。歌は「鴫ハみえねど西行の歌ゆへに日に立つ秋の夕くれ」と書かれている。これは西行の「心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」がらみの作…と小生は読んだ。大磯に鴫立沢碑があるとか。あたしは大磯で鴫ならぬ「アオバト」を撮った。

 彼の墓は靖国通り富久町、成女学園隣「善慶寺」にある。墓碑名は「南無阿弥陀仏」。本名・立松の墓とある。彼が両親のために建てた墓で眠っている。 ※以上は新宿歴史博物館刊「特別展 内藤新宿」(上記絵はここから借用)、小池正胤「反骨者 大田南畝と山東京伝」、芳賀善次郎「新宿の散歩道」、芳賀徹「平賀源内」、小池藤五郎「山東京伝」などを参考。

 井上ひさし「京伝店の烟草入れ」に「平秩東作」題名の短編あり。これは親が御蔵門徒で処刑された子が、東作亡き家に押し入って娘と問答する噺。これら著作の平秩記述は概ね森銑三著作集によっているようです。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。