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靖国通り・成覚寺の「恋川春町」 [大田南畝(蜀山人)関連]

koikawa1_1.jpg 新宿・靖国通り沿い「成覚寺」(新宿二丁目)を入って左壁側に朽ちかけた恋川春町の墓がある。今も語り継がれる人物の墓なれど、何故にこれほど貧相な墓なのかしら…。何年か前にお墓を訪ねた折り、藪蚊に刺されて酷く膨らんだことを覚えている。

 井上ひさし文庫本「京伝店の烟草入れ」収録中の短編「恋川春町」は、恋川の命日の墓前で未亡人「お園」と「朋誠堂三二」が出会うところから始まる…。  

 恋川春町は駿河小島藩の江戸詰用人。本名・倉橋格。狂歌名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」、戯作名は小石川に住んだことから「恋川春町」。最初は浮世絵を学んで絵師として出発したが、後に作者兼絵師で「金々先生栄花夢」刊で黄表紙の最初になった。1789年にお上風刺の「鸚鵡返文武二道」(北尾政美・絵、蔦谷重三郎・刊)で、松平定信(幕府)の召喚の沙汰に出頭せずに自害。 一方、黄表紙作家「朋誠堂」は同じく江戸詰留守居役(秋田・佐竹藩)で、本名は平沢平格。狂歌名は「手柄岡持」。

koikawahaka_1.jpg さて、小説(フィクション)はこう展開する。二人は日に三度も会う仲好しだったが、恋川に召喚の沙汰が出てから朋誠堂は梨の礫。恋町はひたすら友の連絡を待つが遂に自害。藩から、養子だった小島家からも夫婦共に見放されて、「お園」はその後の苦しい生活のなか、偶然に重なる幸運に恵まれつつ、念願の墓をやっと建てた。「お園」は墓前で逢った朋誠堂に「薄情者」と罵り去るが、それら幸運の数々は朋誠堂の陰からの援助だったことが明かされる。

 新宿に行った際に、恋川春町のお墓(写真)へもどうぞ・・・。お墓左側面に辞世の歌が彫られている。「生涯苦楽四十六年/即今脱却浩然帰天」 「我も万た身はなきものとおもぎしが/今ハのキハハさ比しかり鳧(けり)」。戒名は「寂静院廓誉湛水居士」とか。その戒名は正面に刻まれた3名の左にある。墓石右側には「本空院慧岳知浄居士」とあって「倉橋忠蔵」とあるから、それは子の名で、子供が建立したのかもしれない。なお絵は「吾妻曲狂歌文庫」より。


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