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円朝と志ん朝の「文七元結」 [読書・言葉備忘録]

bunsiti_1.jpg 鳥撮りに行かず読書。東京スカイツリーの真下辺りで展開される落語「文七元結」を、「明治の文学 三遊亭円朝」(筑摩書房)で読んだ。新字だが旧仮名なので旧仮名習得中のあたしには絶好の書。円朝の創作で明治22年に「やまと新聞」に発表。挿絵は月岡芳年(写真)。以後、歴代の名人によって磨き練られてきて、明治35年に五代目尾上菊五郎で初演。最近では山田洋次監督・中村勘三郎の「シネマ歌舞伎」が話題。

 明治22年から98年後の昭和57年、古今亭志ん朝の本多劇場独演会の「文七元結」がちくま文庫「志ん朝の落語」全6巻のなか第2巻に収められている。その音源がソニーレコードの志ん朝CD10枚組にも収録で、あたしは下町言葉習得時に熱心に読み・聴いたことがある。志ん朝は何度聴いてもウットリ惚れ惚れしてしまう。ちくま文庫の京須偕充の解説によると、小野田勇脚本「文七元結」を三木のり平演出(長兵衛役)に志ん朝(文七役)が出演したことで、落語はさらに磨かれたと記されていた。

 ちなみに五木ひろしは志ん朝に勧められて三木のり平演出の小野田勇脚本の芝居を数多く演じてい、仕事でそれらを観てきたので、なんとなく舞台の雰囲気がわからぬでもない。石川さゆりが一人芝居風に演った「芝浜」も人情ホロッだが、こちらは登場人物が多く、その誰もが性根優しくマルチでホロホロしてしまう。

encyohi_1.jpg メモ1:円朝の「文七元結」は(もとゆひ)だが、他は概ね(もっとい)と江戸風になまって表記されている。 

 メモ2:文七が集金した小梅の水戸様は水戸藩下屋敷で、今の墨田公園。ここから枕橋(今もある)でスリに遭って50両を取られたと思い、身投げしようとしたのが吾妻橋。長兵衛は橋の南側の達磨横町に住んでい、文七が勤めている鼈甲問屋は橋から西の横川町。後に文七とお久が暖簾分けで店を出したのが今の麹町三丁目辺り。噺から地図を辿ってみるのも愉しい。

 メモ3:さらに同落語を書いた当時に円朝が住んでいたのは新宿御苑・大木戸門前の花園公園辺り(左の史跡看板によれば約千平方メートルで周囲を四つ目垣で囲み、孟宗竹の藪、広い畑、檜・杉・柿の植え込み、回遊式庭園などがあり母屋と廊下でつづいた離れは円朝堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた…と記されていた)で、志ん朝は御存じ牛込矢来町。

 さて、読書の後は身体を動かさないといけません。御苑は大木戸門から入って、カイツブリ16日目の4羽の観察に行きましょうかねぇ。


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