SSブログ

川本三郎「小説、時にはそのほかの本も」 [読書・言葉備忘録]

kawamoto6_1.jpg 大島のベンチで読んだ3冊目。2001年、晶文社刊。まず目次から…。「ずっと読んでいたい本」8編、「思い出の本 忘れられない作家」9編、「新しい小説」9編、「時には小説以外の本も」7編、最後が「大江健三郎を読む」6編。初出一覧を見れば1988~2001年の「文庫解説」や全集の「月報」など。川本三郎は文藝評論家、書評エッセイストなんだな。

 まえがきで、こう記していた。「文藝評論とは、本の良し悪しを高いところから論じたり、辛口批評と評して本をあしざまに批評したりすることが批評の仕事とは、とても思えない。私の場合、本当に読んでよかったと思える本について、黒子に徹して、その良さを書いていきたい」。

 ふ~ん、あたしの生業のひとつだった新譜パンフのコピーを書く姿勢と同じだな。レコード会社依頼の執筆ゆえ悪口、辛口は書けず、逆に楽曲や歌唱の良さをクローズアップする仕事。音楽にはひょんなことでデビューも、満足せぬ作品でもレギュラーリリースする場合もあって「こりゃ、売れねぇ~な」とホンネで思うも、七転八倒してでも良さを発見して書くことになる。意外にそれが制作陣や本人にも気づかなかった核・芯で、そこからプロモーション企画書やキャッチコピーの仕事が追加されたりする。著名評論家ではなくスタッフライターだから、「私は」という人称代名詞抜きの黒子文で、これも通じるなり。

 他にメモしたのは筒井康隆「敵」批評の「壺のなかのもうひとつの世界」。こう書いている。「日記文学の古典に『アミエルの日記』がある。(中略)。つまり日記は、一日を実際に生きることと、一日を言葉に移し替えることの落差から生まれる。一日生きたから日記を書くのではなく、日記を書くために一日を生きる」。永井荷風「断腸亭日乗」と取り組んできた著者ならではの“日記の本質”。ブロガーにもどこか通じるようで面白い。

 最終章「大江健三郎を読む」は、作家の芯、コンセプトを探り出すスリリングな展開が愉しかった。さて、次の読書備忘録は“黒子文”がらみで金谷武洋「日本語に主語はいらない」。関連本3冊読了で、忘れぬうちに記しておかなければ…。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。