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梅雨晴れに箕輪迷ひて浄閑寺 [永井荷風関連]

kafubungakuhi2_1.jpg 小チャリ(14㌅自転車)を駆って、新目白通りから安藤坂を上って春日通り、三筋二丁目を左折で菊屋橋から浅草へ走った。浅草寺界隈をまわって吉原へと思っていたが方向を見失った。三ノ輪の道路標識を見てならば浄閑寺へ。数回訪ねていたから様子は承知の介で、永井荷風文学碑(写真)へ。過去ブログですでに写真アップゆえ、今回は刻まれた詩「震災」を改めて吟味してみた。まずは全文を引用。行変えを/で棒打ちにする。

 今の世のわかき人々/われに今の世と/また来る時代の藝術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて櫻癡は散りにき。/一葉落ちて紅葉は枯れ/緑雨の聲も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫朝も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の兒なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を燬きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名殘烟となりぬ。/明治の文化また灰とはなりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来る時代の藝術を。/くもりし眼鏡ふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の兒ならずや。/去りし明治の世の兒ならずや

kafubungakuhi1_1.jpg(私注)★「震災」は大正12年の関東大震災。清閑寺の荷風碑の前には安政2年の大震災で亡くなった吉原の遊女800名をはじめ昭和33年の新吉原廃止までに投げ込まれた2000名もの遊女の「新吉原総霊塔」がある。その意では震災がらみ。★教養ないもんで今まで「な・・・そ」がわからなかったんで勉強。「な・・・そ」は禁止を表す。~しないでください。わたしに問うなかれ・・・。「さすらいの旅をな泣きそ」(「船の上」)、「ゆめゆめ後をな見たまひそ」(「狼」)など荷風さん「な・・・そ」を多用している。★「われは明治の兒ならずや」=反語的強調表現=私は明治の兒ではないか、明治という時代の兒なのだ。★「團菊」は九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎★「櫻癡」は福地桜痴。明治のジャーナリスト、劇作家。源一郎、八十吉。荷風さんは二十歳の頃に彼の門下生として歌舞伎座の座付作者見習いで1年ほど過ごし、彼が「日出国新聞社」の主筆となった時も半年ほど記者として勤めていた。★「一葉」は樋口一葉★「紅葉」は尾崎紅葉★「緑雨」は斉藤緑雨★「圓朝」は三遊亭圓朝★「紫朝」は新内の柳家紫朝。碑文には間違って「紫蝶」と刻まれている。★「柳村先生」は上田敏★「鴎外漁史」は森鴎外。★「震災」は「明治の兒」から「明治の子」になり、最後に「震災」に改題された。「震災」が収められた詩集「偏奇館吟草」は昭和18年編で、昭和22年刊。

 磯田光一「永井荷風」は序章を「震災」引用で始め、最終章も「震災」引用で締めくくっている。その意で同詩はもっと注目されていいように思う。江戸・明治の文化の消滅への懐古の想いと悲痛な断念。永井荷風は日本の近代化ともいうべき「個人」(個人主義のエゴイスト、ストイシズム)」を最も鋭く肉体化しながら、同時に時代の変転が置き去りにした文明の残像を最も強く保守しようとした。永井壮吉ではなく「荷風散人」という仮構、十字架を貫いて生きたと分析していた。。難しいが、無学のあたしにもよくわかる。


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