SSブログ

金剛寺坂で南畝、荷風、そして一葉(その2) [大田南畝(蜀山人)関連]

kongouji_1.jpg 写真は金剛寺坂。早くも夾竹桃の紅色の花が咲いていた。坂の中程から西(左)に入った辺りに大田南畝の「遷喬楼」があった。南畝さん、学問吟味に合格して三代続いた御徒組からようやく脱して勘定支配になったものの、8年待っても屋敷の下賜がない。しびれを切らして享和3年(1803)の暮れに金剛寺坂に年賦で家を購った。

 実際の転居は翌文化元年2月末。崖上で眺望すこぶり良かったらしい。鶯が多くて鶯谷と呼ばれるほど野趣豊か。「正逢黄鳥喬木 幽谷風光事々新」(正に鶯が喬木に遷(うつ)るに逢う、幽谷の風光事々新たなり)で「遷喬楼」と命名。いつもながら南畝さんチは文人のメッカ。「主人愛客兼愛酒」で…「詩は詩仏書は米庵に狂歌おれ」と詠んだ大窪詩仏が「遷喬楼在懸崖上」と詠んでいるから崖の上にあったに違いない。詳しく位置を求めれば諸説あるも、ここは地元の荷風に案内していただこう。

uguisudani1_1.jpg 大正13年、45歳で記した随筆「礫川徜徉記」はレキセンショウヨウキとでも読もうか。「礫川」は小石川、「徜徉」はぶらぶら散策。あたしは小チャリ・ポタリングだぁ。同随筆は散歩の達人・荷風さんの真骨頂発揮。丸の内から神田、そして小石川白山で大田南畝のお墓・本念寺を訪ね、ここより北の蓮久寺に眠る狎友・井上唖々を訪ね、小石川植物園から春日通りへ。そして生まれ育った金剛寺坂へ。ここからちょっと引用する。…是即(これすなわち)金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中程より西へ入る低地なりと考証家の言ふところなり。嘉永坂の切絵図には金剛寺坂の裏手多福院に接する処明地の下を示して鶯谷と言ふところなり。そして、この辺りは礫川(こいしかわ)の文人遊息の地で、さて、南畝の「遷喬楼」はいづこならむ…と記している。

 写真は多福院そばの崖。この坂を下った所のその下に地下鉄丸の内が通っていて相当に深い谷になっている。多福院に山門はないが、境内に入れば歴史の古そうな立派なお墓があった。同院の壁には「旧同心町」の史跡案内があって、先手組の同心屋敷があったと記されていた。当時はここから富士山も望めたそうだが、今はTOPPANの全面ガラスのビルが聳えていた。大田南畝は駿河台「緇林楼」に移るまでの8年をこの辺で暮らしたが、移転直後に長崎奉行所出役を命じられている。還暦を迎えた文化5年(1808)には玉川巡視へ。息子・定吉の心身芳しくなく、南畝は亡くなる75歳まで牛込御門から勘定所に勤務。風流遊びも仕事が終わってからの二重生活…。長くなったので大田南畝はこの辺で閉めましょうか。次に向かうのは、金剛寺坂中程を「遷喬楼」とは反対の東へ。安藤坂を渡ったところに樋口一葉が学んだ「萩の舎」跡の史跡がある。

(追記)伏見弘「牛込改代町とその周辺」の「金剛寺門前町」の項に「南畝拝領屋敷の経緯」に、金剛寺が寺社奉行所に提出した文書文面が紹介されている。境内六千四百四十八坪のうち、境内東之九十三坪を、支配勘定大田直次郎に十年年季で十一両十一匁二分五厘で貸すと記されている。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。