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金剛寺坂で南畝、荷風、そして一葉(その1) [大田南畝(蜀山人)関連]

kongozaka2_1.jpg まずは小チャリを駆る前に荷風全集第23巻「断腸亭日乗」昭和16年9月28日の頁をひもときます。史跡巡りは予習が肝心。無駄走りにならぬよう事前勉強でございます。「日乗」を読めば、63歳の荷風さんが久々に生まれ育った地を訪ねてちょっと感傷的に記している。…九月念八(「念」は「廿」と同音で二十の意)、松陰暗淡薄暮の如し。午後小石川を歩(ほ)す。伝通院前電車通りより金富町の小径に入る。幼児紙鳶(しえん・凧のこと)あげて遊びし横町なり。一間程なる道幅むかしのまゝなるべく今見ればその狭苦しさこと怪しまるゝばかりなり。旧宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出づ。暫く佇みて旧宅の老樹を仰ぎ眺め居たりしが、其間に通行の人全く絶えあたりの静けさ却ってむかしに優りたり。坂を上り左手の小径より鶯谷を見下ろすに…(以下略)。 

kafuseika1_1.jpg これを頭に入れて、いざ小チャリ・ポタリングしゅっぱぁ~つ!。とは云え自宅から4㎞の至近にて、汗するまでもなく金剛寺坂中程の住所標示板の前。ここに事前調べのポイントを赤丸で四つ打っておく。右から二つ目の赤丸が荷風さん生家。なるほど、「日乗」に記されていた通り道幅一間。子供時分に宇宙だった露地も、大人になってみれば狭さに驚くのは誰もが体験のこと。荷風さんチはこの道の中程左側。露地角に「永井荷風生育の地」なる案内板あり。新宿と違って文京区はこうした史跡案内板充実でさすが文京の区。荷風さん、明治12年(1879)生まれで同26年まで(その間に父の文部大臣秘書就任で永田町1丁目の官舎暮しが1年程あり)ここで過ごした。当時を回想した有名な随筆「狐」がある。

 「…旧幕の御家人や旗本の空屋敷がそこここに売物となっていたのを父は三軒ほどを一まとめに買い占め(相当に広かった)、古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した」。 鬱蒼とした敷地内に出没する蛇や蛙、古井戸の恐怖、狐退治などちょっと怖かった回想…。いかに野趣ゆたかな地だったかがわかるが今は住宅密集なり。この露地の西側、金剛寺坂中腹の案内板には、荷風さんはここを通って黒田小学校に通ったとも記されていた。黒田小学校は左の赤丸辺り。当時の同校は木造二棟で八教室。同校は後に区立第五中学、今は筑波大理療科教育養成施設「はり きゅう治療室」。筑波大と「はり きゅう」は結び難いが、はて、何をやっているところでしょうか…。

 63歳の荷風さん、久々に生家の辺りを散策した後に伝通院前から市電に乗って浅草・オペラ館へ。「余本年に入りてより漸く老の迫るを覚え歩行すれば忽疲労を感ずること甚しければ生れたる小石川の巷を逍遙するもおそらくは今日この日を以て最後となすなるべし。倒れかゝりし大黒天の堂宇に比して此世に在ることいづれが長きや」…なぁんて情けないことを記して日記を閉じている。荷風さんに、この小チャリを貸してあげましょか。

 話を戻そう。荷風さんが金剛寺坂を上がって鶯坂を見下ろして…と「日乗」に記しているが、この鶯谷の見晴らしのよい崖上に大田南畝の「遷喬楼」があった。駿河台「緇林楼」に移るまでの8年程をここで暮らしていた。南畝去りし67年後、同地に永井壮吉・荷風誕生と相成候。長くなったので今日はここまで。大田南畝「遷喬楼」(左から二つ目の赤丸)と樋口一葉が通った「萩の舎」(右赤丸)については、また明日…。


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