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大田南畝の終焉地も工事中 [大田南畝(蜀山人)関連]

awajizaka1_1.jpg 昨日の続き。・・・大田南畝終焉の屋敷「緇林楼」跡を訪ねた。「御茶ノ水」駅際の交番で「淡路坂はどこですか」と尋ねれば「はぁ」と言う。牛込中町図書館で「大田南畝の・・・」と尋ねれば「はぁ」と言う。皆さん、地元のことを知らん。いや、お巡りさんも図書館員も地元とは限らぬ。今や東京生まれは少数派。福岡出身タモリが江戸・明治の東京史跡を探る番組が人気になる。この噺をすれば脱線ゆえさて・さて・・・

 御茶ノ水・聖橋から昌平橋への淡路坂にさしかかったらイヤな予感。ここもまた大工事現場になっていた。日本は昨日26日調べで1137兆円を超える負債を膨らませて破綻寸前国のはず。しかし実際は彼方此方で巨大建築ラッシュ。このへんのカラクリがわからん。かくして東京の江戸や明治の記憶、痕跡は次々に巨大建築に埋もれて行く。

yusimaseido2_1.jpg とまれ、工事現場から無理に想像すれば、今から199年前、文化9年(1812)7月5日、大田南畝はここに二階建て「緇林楼」を建てた。二階十畳が南畝の書斎で客間。江戸の文人らのメッカになった。ここからは太田姫稲荷、御茶ノ水の渓流、その向こうに湯島聖堂の甍と森が一望。入徳門~杏壇門から大成殿(孔子廟)。余りに印象的な真っ黒の建物。「緇林杏壇」は学問を教える所、講堂の意。「緇」は黒。「緇林」は黒染め布が集う所、寺院。かくして「緇林楼」か。湯島聖堂は朱塗りだったそうだが、水戸の孔子廟にならって後に黒塗りになったとか。写真は中島みゆきの後姿似の女性がこわごわと大成殿を覗いている図。

「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた南畝らしからぬ命名。いや、狂歌や戯作に大はしゃぎした後の「寛政の改革」で仲間らが処罰された44歳に、一念発起で学問吟味に挑戦。その試験場が湯島聖堂だった。その甍を望む地に屋敷を構えた喜びはいかばかりか。死んだ恋川春町、手鎖五十日の刑の山東京伝、財産半分没収の蔦屋重三郎、国元に返された朋誠堂喜三二、江戸払いの宿屋飯盛、牢死した平賀源内の顔も浮かんだろう…。 行きすぎて七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩。

 おっと、まだ死んじゃいけねぇ。大田南畝は牛込御徒町からここに移り住む間に小石川・金剛寺「遷喬楼」と名付けた屋敷に住んでいたこともある。金剛坂といえば永井荷風生誕の地ではないか。荷風・南畝旧居訪ねの小チャリ・ポタリングはまだ終わらない。


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