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洗足池畔の勝海舟のお墓 [幕末維新・三舟他]

katunohaka1_1_1.jpg 炎暑が途切れた8月初旬、小チャリを駆って洗足池の勝海舟のお墓へ。このポタリングは後日に記すとして、まずは“勝っつぁん”のお墓について。

 半藤一利「それからの海舟」を読んだが、そのエピローグが「洗足池の墓詣で」。半藤先生は向島生まれの江戸っ子で薩長嫌いだ。プロローグ「本所の勝麟」ぶらぶら記・・・でこう記す。「幕末における薩長は暴力組織以外のなにものでもないと思っている」。ゆえに「官軍」とは言わず、一貫して「西軍」と記す。幼児期より祖母の「高位高官だと威張っておるが、薩長なんてのは泥棒そのものだて」と聞かされつつ成人したと述懐。明治の夏目漱石や永井荷風の薩長嫌いをしっかり受け継いだ昭和生まれ。ゆえに“勝っつぁん”と親しみを込めて呼ぶ。

katunokao_1.jpg 大久保百人町生まれの江藤淳も勝海舟好きで、その「海舟余波」は有名。半藤っつぁんの同著はこの「海舟余波」を意識して「プロローグ」で始まり「エピローグ」で終わる同じ構成になっている。半藤版「海舟余波」といったところか。さて半藤っつぁんは冒頭に記したように「エピローグ」で梅雨の晴れ間に池上線に乗って洗足池に行ったと記している。向かって左に「勝海舟室」と書かれたお民さんの墓。長年の妻妾同居の生活に耐えて、死んだら息子・小鹿の傍に眠りたいと青山墓地に入っていたものを、誰が不細工したか夫妻で並ぶ墓に相成る経緯を記し、その筆は隣の西郷隆盛の留魂碑と留魂祠についての説明になる。そして半藤っつぁんは心静かにでぇ~好きな勝っつぁんと対話をするんだが、若い娘の携帯電話する黄色い声にかき乱されるところでエピローグを結んでいる。

 で、あたしの場合は厳粛な気持ちで頭を下げた掃苔だったが、その直後に5、6人の子らがワッと勝夫妻のお墓によじ登り飛び降りたりで驚愕した。「おぉ、余りに不謹慎」と思ったものの、事前にネットで読んだ「ここに遺骨はなく、子孫が自家の墓に移した」の記述を思い出し、かつここは墓地ではなく公園の一角だから致し方ないかと思った。さて、半藤っつぁんもそこんとこは承知の介だったのだろうか。では勝っつぁんの本当のお墓はどこにあるんだろう。調べてみたら勝っつぁんちの墓はかなり複雑なことになっていて頭が混乱してきた。頭の整理が出来たら、この続きを記す。


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