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回向院で山東京伝の墓に・・・ [大田南畝(蜀山人)関連]

kyodenhaka1_1.jpg 下町ポタリングで両国橋を越えた。その右側に回向院あり。境内の案内に「山東京伝の墓」の案内板。知らなかったゆえ、そうと知って興奮した。自ら探すより伺った方が早いだろう。「山東京伝のお墓はどこでしょうか」「ウム、岩瀬醒(さむる)か。ついておいで」。鼠小僧の墓のちょっと奥の一画。左に山東京伝、真ん中に「岩瀬百樹(京伝の弟の山東京山)」、右に「岩瀬家之墓」が並んでいた。

 帰宅後に小池藤五郎「山東京伝」をひもとけば「大震災後の区画整理で現在の特定史跡敷地内に移されたが、それ以前はここより北東にずっと離れてい、柳の木があってすがすがしかった」。そして昭和36年刊の同書の写真キャプションは「高さ76㎝ぐらいの石垣を三方にめぐらし、地盤がわずかに高い。背後はコンクリート塀で人家」。さらにネット検索すると09年撮影の墓は京伝、岩瀬家、京山の順。さまざまな配置変化で現在に至る。鼠小僧の墓を詣でて御利益を得ようとする人々は多かろうが、京伝の墓には関心を寄せる方がいないか、忘れられたような佇まい。だが江戸文化を代表するスーパー・クリエイターだった。

kyoden2_1.jpg 山東京伝のプロフィールを要約する。宝暦11年(1761)生まれで、深川木場の質屋の長男。豊かな家庭で長唄、三味線を習い、浮世絵は北尾重政門下。22歳の自画自作「御存知商売物」が大田南畝の「岡目八目」で絶賛されて人気作家に。北尾政演の名で浮世絵を、自画・戯作者として黄表紙、洒落本、滑稽本などのマルチ・アーティストに。さらに銀座1丁目に煙草入れ屋「京伝店」を開業。今でいう商品&広告デザイナー&コピーライターで自作ブランド商品を揃えて商売人としても成功。最初の妻は吉原の新造菊園(お菊)で、結婚3年後に死去。7年後に吉原玉屋の遊女玉ノ井(百合)を妻に迎えて、以後は遊里に行かず。なお寛政の改革では手鎖50日の刑。浅草寺に弟・京山が建てた京伝愛用の机塚がある。

 写真は代表作のひとつ「江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)」の一部。裕福だがモテない男・艶二郎がモテる男の苦労をしてみたい、そんな浮名を流してみたいと金を使って自演してみせる物語。最後に心中を演出したが、三囲神社で本当のおいはぎに襲われて身ぐるみ剥がされた。実は息子のバカさ加減に呆れた父と番頭の仕組み。彼は己のバカさを世の教訓にと京伝に草双紙に書いてくれと頼んで、真人間になったとか。絵は細部まで、物語も凝っている。

註】後に古文書の勉強を始め、原文「江戸生艶気蒲焼」を筆写・解読のブログを始めるとは思わなっか。参考:小池藤五郎{山東京伝」、小池正正胤「反骨者 大田南畝と山東京伝」、日本古典文学全集「黄表紙 川柳 狂歌」 


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