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本所の「勝っつぁん」巡り [幕末維新・三舟他]

katuseitanti2_1.jpg 両国橋を渡ってすぐの回向院。ここからちょっと東に行った所(本所松坂町・現両国3丁目)に「忠臣蔵」の吉良邸跡がある。さらに東に両国小学校角に「芥川龍之介文学碑」。その東奥が剣聖・男谷精一郎宅跡の両国公園(旧本所亀沢町・現両国4丁目)。ここの片隅(写真)にひっそりと「勝海舟生誕之地」石碑が建っていた。書は西郷隆盛の嫡男・寅太郎の三男で、佐藤内閣の法務大臣・西郷吉之助。

 勝海舟の祖父・平蔵が3万両で株を買い取って千石取りの男谷家を継ぎ、平蔵の三男・小吉が、支配勘定の勝家の一人娘・信子の養子になったが、実際は男谷家に仮住いしてい、勝はここで生まれ育った。男谷一族に大奥に上がっていた女性が二人いて、その一人がお茶の局で御本丸の呉服の間勤め。お茶の局に連れられてお庭を拝見した際に、将軍家斉の眼に止まって、初之丞(12代将軍・家慶の五男)の学友に。勝は7歳から大奥へ。

kaisyuuoi_1.jpg 勝9歳の時に、野犬に金玉を噛まれて生死をさまよう。無頼の小吉だったが我が子への愛情は深い。水垢離で妙見堂詣でをし、連日ハダカで勝を抱き寝して命を救った。病床70日で全快。その妙法堂が、ここより三ッ目通りを北に走った本所4丁目にあり「勝海舟翁像」が建っている。石碑にこう記されていた。「勝海舟九歳の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ勝海舟の偉徳を永く後世に傳へるために地元有志に依ってこの胸像が建てられた」。勝っつぁんは金玉の傷も癒えて、再び初之丞の学友となって将来が期待されたが、初之丞の急逝で御殿を去って剣術と勉学へ。

 勝海舟の像はこの妙見堂のみだったが「江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄に感謝せねば・・・」と、今から8年前、2003年7月21日に有志基金によって墨田区役所の広場に立派な銅像が建てられた。(以上、半藤一利「それからの勝海舟」、勝部真長「勝海舟」より)。 さて、今度は自転車でどこに行きましょうかねぇ。

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