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上野の西郷さんの銅像に・・・ [幕末維新・三舟他]

saigouzou2_1.jpg 江藤淳「南洲残像」「南洲随想」を読んだので、自転車で上野の西郷像を見に行った。動物園に通った子供時分に何気なく見た西郷像を、しげしげと見上げたのは初めてのこと。

 西郷像は、彰義隊の墓の隣にあった。幕末維新ものの俄か読書の頭では、なぜここに西郷像が建っているのかわからない。彰義隊には勝海舟も山岡鉄舟も西郷隆盛も手を焼いたとかで、それを長州の大村益次郎が禁断のアームストロング砲をぶち込んで、一瞬に壊滅させたとか。その大村益次郎銅像は靖国神社に聳えている。

 西郷像は江戸城無血開城で江戸を戦禍から救ったことが建立由来だろうが、それなら江戸っ子は勝海舟に感謝が筋だろう。その海舟像は今から8年前に墨田区役所の隅田川沿いにやっと建った。勝海舟は西郷が西南戦争で亡くなった直後に、人知れず南葛飾郡上大下川の浄光寺の境内に「南洲西郷先生留魂祠」を建立。勝は遺言によって洗足池畔に自身の墓を、その隣に留魂祠も移している。(下写真)

saigoryukonsi_1.jpg 上野の西郷像由来にこう記された一部あり。「・・・征韓論が閣議に上るや(西郷は)断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し~」。おやぁ、読んだばかりの圭室諦成著「西郷隆盛」とは真逆記述なり。こっちの記述はこうだ。「西郷はうかつにも山県有朋の口車にのせられて徴兵制発布に賛成してしまった。ここに西郷の悲劇が始まる。封建的土地所有の再編成を要望する鹿児島士族団は、軍人を士族に限定することが絶対に必要で、彼は鹿児島士族団につきあげられて征韓論に狂奔せざるをえない立場に追い込まれた。それで征韓戦争誘発のための遣韓大使を望むが・・・」

 とまれ、彰義隊も西南戦争も王政復古、廃藩置県、さらには新政権に群がって私欲を貪った輩や江戸で狼藉の輩への、総じて新時代へ切り替えに不満を抱いた士族の哀しい結末だろう。幕末維新の理解は、隠居の頭ではなかなか理解覚束ぬ。若い頃に勉強しておけばとよかったと反省するが後のまつりよ。


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