SSブログ

江藤淳「南洲残影」「南洲随想」 [幕末維新・三舟他]

saigobon_1.jpg 新大久保生まれ。愛犬はコッカースパニエル。1996年に「荷風散策」を発表。親しみを感じないわけでもない氏の「海舟余波」を読んだ後に、その24年に著した「南洲残影」「南洲随想」を読むのも筋だろう。

 著者は、政治的人間として一度も失敗しなかった勝海舟が、政治的人間として大失敗した西郷南洲を追慕してやまなかったのは何故か・・・を探っていく。海舟は南洲戦死後、人知れず南葛飾郡上木下川の浄光寺境内に「西郷南洲の留魂祠」を建てている(海舟亡き後は、洗足池の自身の墓の隣に移動)。綿密な戦略家の西郷が、何故にかくも杜撰な西南戦争を展開したか。欧米留学を経て近代世界を知った知的青年らが西郷を慕って死に向かったのは何故か・・・。

 西郷は西南の役にあたって「拙者儀、今般政府へ尋問の廉有之(かどこれあり)」と立った。「明治維新をそんなふうにやっていたら、日本はだめになる」と言いたかったのだろう。このへんを私流に記せば・・・西洋に追いつけ追いつけで、日本語を棄て英語をと言った森有礼や、日本語を棄てフランス語をと言った志賀直哉、さらにはローマ字運動など、日本が培ってきた文化を棄ててまで西洋化の道を歩もうとしたと同じ過ちで、明治政府が走り出したことへの「尋問の廉有之」だったように思われる。ここには西洋を知って西洋化に走る派と、西洋を知って日本ならではの良さを知った派の深い溝がある。加えて明治政府を私欲の場にした偽善者ら。比して勝も西郷も「無功亦無名」が信条。

 こう記せばすっきりするのだが、江藤淳は妖しい方向に舵を切る。田原坂の戦跡に見つけた蓮田善明の文学碑より、蓮田が16歳の三島由紀夫を見出し、蓮田・三島・西郷の自裁の宿命を見つめる。西郷も若き青年たちも滅亡を求めて挙兵したに違いない。ひとつの時代が終焉を迎えるときは、行動を興す者も瓦全(なにもしない)者も、結局は一切滅亡あるのみ。勝も徳川の滅亡を求めたが、滅亡の美学上では西郷の全滅には遠く及ばない。ゆえの追慕だったのではなかろうかと・・・。

 江藤淳は「南洲随想」のあとがきを愛妻が不帰の人となった翌日に記し、翌1999年7月21日に自ら形骸を断ずると自刃した。そこに滅亡の美学がなかったとは言い難い。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。