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志賀直哉「自転車」の「切支丹坂」(その2) [新宿発ポタリング]

kousinzaka_1.jpg 2011年6月9日ブログに<志賀直哉「自転車」の「切支丹坂」>をアップした。志賀直哉は69歳の時に、少年期の自転車狂時代を思い出して、「切支丹坂」を自転車で滑り下りたことを自慢していた。

 昨日、武田勝彦「漱石の東京」を読んでいたら、漱石の明治38年発表「琴のそら音」の地名分析で、漱石が記す「切支丹坂」は現在の「庚申坂」(写真上)の間違いではないかという記述があった。「・・・竹早町を横って切支丹坂へかかる。(中略)。坂の上へ来た時、ふと先達てここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心ぢゃ用心ぢゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出て居るのを滑稽だと笑った事を思ひ出す」。さらにこう続く。「坂を下りて、細い谷道を伝つて、茗荷谷へ上がつて七八丁行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がる迄がちと気味がわるい」。

kirisitanzaka1_1.jpg 「漱石全集」旧版と新版の「切支丹坂」注解を比べて、漱石と旧版注解は「現在の庚申坂」を「切支丹坂」と誤っていたと指摘。「現在の切支丹坂」は上写真の急石段を下って、丸の内線下のトンネルを抜け、小日向台地へ上る坂のこと。その坂を昇り切った左側に、写真下の「切支丹屋敷跡」の史跡がある。さらに調べてみると、この現「切支丹坂」は明治20年頃の地図にはなく、その後に出来た道らしい。そして明治39年刊の「新撰東京名所図会」になって初めて春日通りに抜ける急坂が「庚申坂」で、西南側に上る坂が「切支丹坂」と説明される。

 さらに時代を遡れば、多くのキリシタンが幽閉された切支丹屋敷は約8千坪で、元禄14年に北側が七軒屋敷になって、そこを沿う道が「七軒屋敷新道=切支丹坂」だったとか。まぁ、切支丹坂には諸説あって、とにかく明治期は現在の「庚申坂」を「切支丹坂」と呼んでいたらしい。ちなみに漱石は庚申(かのえさる)生まれ。この日に生まれた子は大泥棒になるの迷信から厄除けで金之助(本名)になったとか。庚申に縁がある。

 そこで問題になってくるのが、志賀直哉「自転車」の「切支丹坂」だ。なにしろ自転車で下ったことが大自慢なのだから、果たしてどっちの坂かをはっきりさせねばならぬ。志賀少年が自転車狂だったのは明治29年から35年まで。となれば、やはり漱石と同じく志賀直哉の「切支丹坂」も「現在の庚申坂」だったような気がしてくる。今は写真のような石段だが、当時はいかに急坂だったかわかろう。またこの坂は「土なめらかにして、とりわけ雨後はすべりてころぶものおほし、よくころぶといふより切支丹坂といひならはせしと」の説明もあり。ここを自転車で滑り下りたのだから、そりゃ自慢だったろうと納得せり。

 永井荷風「日和下駄」の「切支丹坂」記述、岡本綺堂の「切支丹坂」、遠藤周作の「切支丹屋敷」もあって、この坂に関してはまだ(その3)(その4)と続くかも。


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