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吉村昭「彰義隊」と「たい焼き」 [幕末維新・三舟他]

rinnoujimiya_1.jpg 北の丸公園の東京国立近代美術工芸館(赤レンガの旧近衛師団司令部)隣に、こんな立派な銅像在り。都心には誰だかわからん(小生には)軍人や財閥系銅像が多い。この銅像、誰だかわかります? 案内板には概ねこう書かれている。

 北白川宮久能親王銅像 伏見宮邦家の第九皇子として御誕生。輪王寺宮を相続。上野寛永寺の門跡となられる。明治3年に還俗して伏見宮に御復帰。ドイツに留学して兵学を学ばれ軍籍に就かれて活躍云々~。

 実はこの方、彰義隊の冠、あの輪王寺宮。吉村昭「彰義隊」には上野の彰義隊が敗れた後の、宮の逃亡行が詳細調査をもって小説化されている。討幕軍の大総督は有栖川宮熾仁親王で、参謀は西郷隆盛。徳川慶喜は恭順の姿勢を示して江戸城から上野寛永寺で謹慎。同山主が22歳の輪王寺宮だった。討幕軍に慶喜の寛大処置を嘆願するに絶好の人材で、山岡鉄舟らの説得で宮は京行きを決意。駿府城に入った有栖川宮に嘆願するも、和宮を徳川に取られた有栖川宮は憎悪むき出し。まぁ、結局は西郷と勝海舟、山岡鉄舟らの交渉で江戸城無血開城、慶喜の処遇が決定。

syougitai_1.jpg 江戸に入った薩長らの狼藉に、勝は上野の山に屯集の彰義隊に江戸の治安巡回を指示。江戸っ子は彰義隊に喝采したが、大総督府はこれに危機を感じた。勝に解散を命じるが、輪王寺宮側は聞く耳持たず。かくして長州・大村益次郎が大砲をぶち込んで一夜決着。彰義隊と共に宮の逃亡が始まった。

 宮一行は大洪水の下町を中根岸、三河島村、上尾久村、さらに浅草・東光院から市ヶ谷・自証院、鉄砲洲の回漕問屋の松阪屋、ここから榎本武揚率いる海軍の「長鯨」に乗って平潟に逃亡。今度は奥羽越列藩同盟に祀り上げられて会津、米沢、仙台城へ。敗戦相次ぎ、宮はついに帰順を決意。京都の生家・伏見宮屋敷で謹慎。さらに敵対した有栖川宮の屋敷へ。

 宮はたまらず海外留学を直訴。プロシア(ドイツ)留学が決定し、6年経て明治10年にドイツ陸軍大学校を卒業して帰国。この時、31歳。戸山ヶ原の陸軍学校に入学後、近衛師団を率いて台湾へ。同地でマラリアによって薨った。吉村昭の著には書かれていないが、多くのサイトには留学中にドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約し、「なにを馬鹿なことを考えているんだ」と政府に叱責されたと書かれている。出典がないが、どの資料にその記述がありましょうか。ともあれ数奇、波乱の人生を歩まれた。

 ★自転車で北の丸公園へ行った際に、四谷に寄って「わかば」のたい焼きを購った。人形町「柳家」のたい焼きよりズシリと重い。それだけあんこ量が多い。「自転車こぎこぎ」の伊藤センセイもポタリング途中で「わかば」でたい焼きを食い、木村荘八や安藤鶴夫を語っていた。「たい焼き御三家」あとは麻布十番「浪速屋総本舗」。麻布へ行けば有栖川宮公園。ここに有栖川宮熾仁の銅像。たい焼きと宮家の軍人、妙な取り合わせになってきた。


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