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彰義隊から幇間・松廼家露八(その2) [幕末維新・三舟他]

uenosennsou.jpg 昨日の続き。・・・吉川英治「松のや露八」は史実をねじまげたフィクション。森まゆみ「彰義隊異聞」の「幇間になった彰義隊士」の章には、松廼家露八が67歳のときに語った「身の上ばなし」が再構成・紹介されている。

 同章によれば、露八こと土肥庄次郎は弟・八十三郎が隊長として守る一番隊(黒門)に他の二人の弟と共に参戦している。だが吉川小説では、八十三郎は勤王派で桂小五郎に伝馬牢より救出されて官軍に加わったように描かれている。これには森も「いかな小説とはいえ、子母澤寛ならこうは書くまい」と記している。

 同章より土肥庄次郎の主な事実を箇条書きにする。まず、こう語り出している。「生れは天保の四年の巳でム(ござ)います。代々一橋家御家形附を命ぜられまして~」。祖父は土肥新八郎で御旗奉行、父・半蔵は御近習番頭頭。庄次郎が惣領で11人の子がいた。

 ★武術好きだった。剣術、柔術、槍術、馬術、弓道の各修行流派を語る。★19歳で母が死去。継母が気に入らず放蕩。講釈師になって寄席に出て父が激怒。(荷風さんに似ている)。廃嫡されて弟が家督相続人。★安政2年の大地震には家に戻ったが、遊女屋火炎玉屋山三郎の食客に。玉屋の幇間・荻江露友こと佐藤清兵衛のひきで同年5月に荻江正二(のち露八)で幇間に出る。★これまた父にわかって大阪で虎八の名で幇間。

 ★上野戦争が始まると、黒門を守る弟・八十三郎を隊長にした一番隊に参加。(写真は上野「彰義隊の墓」案内板掲載の黒門激戦図)。★戦い破れて飯能に逃げた後、咸臨丸に乗ったが大シケで駿河湾へ。清水の次郎長の厄介で旧主幕臣のいる静岡へ。同地で13年暮らした後に吉原に戻って幇間。師の荻江露八亡き後に、松廼家露八に改名。

 ★他に慶応4年、戯作者・仮名垣魯文に「ひきがえる」と陰口を云われてひと悶着。★明治6、7年に剣客・榊原鍵吉の撃剣会の呼出役を勤めるなど。

 ★明治36年に71歳で死去。辞世は「七十一歳見あきぬ月の名残哉/夜や寒き打ち収めたる腹つづみ」。土肥家代々の牛込・浄輪寺ではなく、遺言で同士の眠る三ノ輪円通寺でのお墓に葬られた。


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