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彰義隊から幇間・松廼家露八(その1) [幕末維新・三舟他]

matunoya_1.jpg さて、次は何処に走りませう。幕末維新関連で訪ね残るるは、上野寛永寺の弾痕残る黒門保存と、彰義隊戦死者眠る三ノ輪・円通寺。西に眼を見やれば田町駅近く、勝海舟・西郷隆盛会見の地と薩摩藩邸跡。ネット調べすれば、円通寺に「彰義隊から吉原・幇間になった土肥庄次郎の碑・お墓」在り。「むむっ、小説ネタじゃないか。誰かが書いている」と、閃き図書館検索すれば吉川英治「松のや露八」有り。徒歩数分の大久保図書館にあった。

 大衆歴史小説家・吉川英治は未読。読めばいかにも大衆小説。約5時間、一日で読了。氏は身体が丈夫ぢゃなかったか、息切れするように読点多用。以下、それを、真似して記す。

 土肥庄次郎は、一ツ橋家(慶喜)の、近習番頭取息子。小石川武島町、今の水道町2丁目生まれ。あたしんチから、自転車で15分ほど。どん臭い男で、13年もかかって、剣術免許皆伝。彼に渋沢栄一、榊原鍵吉、荻江節おっ師匠さんチの美人三姉妹が絡む。糸が切れたように、放蕩から勘当の身へ。桂小五郎が伝馬牢の勤王仲間を救い出す作戦に絡めば、逃亡するのは、弟の八十三郎。弟を追って、騒乱の京都へ。京で荻江節の流しで暮らせば、それを教えてくれた、美人姉妹に再会。深間のお蔦と長崎、博多、下関に流れる。馬関芸者で稼ぐお蔦は、奇兵隊の男に惚れる。そんな流転・痴情から、江戸に戻って、彰義隊に参加。

 一夜で敗退した彰義隊。榎本の軍艦で、函館に逃げるつもりが、駿河湾に漂着。そこは、すでに徳川家一統が移り住んでい、彰義隊くずれは、江戸派にも相手にされず。「べら棒め、いってぇ、何のために戦をやったんだ」とぼやく他にない。しかたなく、江戸に戻って荻江節で、吉原の幇間になった、という物語。おもしろおかしい大フィクション。

 さらに、ネット検索すれば、荘司賢太郎さん「せんすのある話」が荻江流長唄、松廼屋露八の、史実詳細調べのエッセイ掲載のサイトに出逢った。これは、小説に比し、読み応え十分。

 さらに「いかな小説とはいえ、子母澤寛ならこうは書くまい」と吉川英治の同小説に暗に噛みついているのが森まゆみ。こちらは松廼家露八本人が67歳のときに語った「身の上ばなし」を紹介。この記を読むと、同小説がいかに史実を歪めたフィクションかがわかる。明日は(その2)を記す。


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