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彰義隊落ち葉はらはら上野かな [幕末維新・三舟他]

syougitaihaka1_1.jpg 昨日、上野周辺ポタリング。写真は「彰義隊の墓」。今から143年前、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、上野戦争は半日で終わった。累々と放置された彰義隊士の遺体。

 三ノ輪・円通寺の仏磨和尚と侠客・三河屋幸三郎が新政府に火葬許可を乞い、266名の遺体を埋葬。山岡鉄舟による墓碑「戦死之墓」前に、「彰義隊之墓」と書かれた小石がある。これは明治2年に二人の住職がそれぞれの寺号より一字ずつ合わせた匿名で、密かにその地に埋納したものとか。

 そして明治7年、東京府に埋葬地に建墓願いが寛永寺から、旗本で剣豪の榊原鍵吉らから、彰義隊残士の小川椙太(興郷)らから出た。結局、小川らが建墓の任にあたり立派な唐銅の宝塔をもった墓を完成。しかし借金がかさんで債権者が宝塔を持ち去った。宗派を越えた再建計画をもって、現在の墓が完成。

syougihaka4_1.jpg 小川椙太は神田で剣術道場を営みつつ建墓、墓を守ってきた。氏が亡くなり、妻「りて」と娘「しか」が引き継ぎ、娘が先に亡くなって、姪「みつ」を養女にして、「みつ」と夫が茶屋(彰義隊資料室も併設)を設けて墓を守り、平成15(2003)年の「上野彰義隊資料室さよなら展示」まで、実に120年余にわたって小川一族が墓所を守り続けてきた。現在は墓を東京都が管理し、資料を台東区教育委員会が保管とか。

 他に「彰義隊の墓」は三ノ輪・円通寺(上野の遺骨一部を合葬。また弾痕夥しい黒門を移築。幇間になった土肥庄次郎をはじめ大島圭介など多数彰義隊士の墓がある)、そして台東区蔵前の西福寺にも。同寺の墓標は「南無阿弥陀仏」のみ。当時、寛永寺の山守をしていた高木秀吉(のち市村座座主)が、擂鉢山辺り(東京文化会館裏辺りにある前方後円墳)の132遺体を火葬して遺骨が納めたとか。(以上、森まゆみ「彰義隊遺聞」より) 間もなく彰義隊の墓に、143年目の落ち葉がはらはらと舞う・・・。


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