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石橋思案の自転車と紅葉、美妙 [新宿発ポタリング]

bimyou3_1.jpg 今、「明治の文学」第10巻「山田美妙」、嵐山光三郎の「美妙、消えた。」を読書中。嵐山本は再読だが、ここに石橋思案の自転車に言及個所あり。すでにカテゴリー「新宿発ポタリング」で<徳川慶喜の自転車><志賀直哉の自転車>をアップしているので、同書にある<石橋思案の自転車>についても取り上げたい。以下、概要・・・。

 明治17年、美妙は東京大学予備門に入学。文学没頭で学校に出て来ぬ美妙に、紅葉が「師走の学期試験があるから出て来い」と手紙を出す。美妙が久し振りに登校すると、自転車通学の思案がやってきて、二人に自転車の練習をさせようとする。嵐山はこう書いている。「思案は自転車通学だった。父親が裕福で、大きな屋敷に住み、イギリス製の自転車を買って貰ったという」。また駿河台の借家に越した美妙のところに紅葉が転がり込むが、そこに美妙がウイスキーを持って自転車で訪ね来るシーンもある。三人は盛り上がって硯友社の雑誌題名を「我楽多文庫」と決める。

 さて、志賀直哉が自転車狂だったのは明治29~35年頃。自転車で「切支丹坂」を下った自慢話の小説で、1ヶ月10円で暮らせた時代に、祖父に160円のデイトナという蝦茶色の自転車を買ってもらったことを書いている。一方、徳川慶喜が自転車に乗った(買った)のは静岡在住の明治20年頃。そして石橋思案は両者よりもっと早い明治17年にイギリス製自転車に乗っていたことになる。石橋思案関連本を探し読む愉しみが増えた。

 そしてもっと面白いのが、ここに大田南畝の絡みが出てくること。嵐山光三郎は紅葉が大田南畝の牛込中町の生家跡に移転し、その後を江見水蔭が入ったとまで書いたが(江見水蔭著「自己中心明治文壇史」引用)、実は石橋思案の祖父が長崎の通詞・石橋助左衛門で、大田南畝の長崎時代に一緒に仕事をした仲だったことを見逃している。大田南畝が長崎奉行詰を命じられたのが文化元年。ロシアのレザノフ使節との交渉に立ち会ったのは有名な話で、この時の通詞が思案の祖父だったはず。著者が逃した逸話を発見して「ふふっ」と笑ったりするのも、へぇ、読書の愉しみで御座いますぅ。


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