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なでしこは二重八重やの累(かさね)あり [おくのほそ道]

kidouato_1.jpg 芭蕉は日光から那須・黒羽へ。道に迷って男に訊ねれば「此野は縦横に道が分かれて迷うだろう、馬を貸すから馬が動かなくなったところで追い返しなさい」と道案内の馬を貸してくれた。その馬に二人の子供がついてきた。一人は女の子。名を訊けば「かさね」。女の子は撫子に例えられる。撫子で「かさね」なら八重撫子だろうと<かさねとは八重撫子の名成るべし>と詠んだ。曾良句だが、これも芭蕉句らしい。これで6句目也。

 さて、目下「岡本綺堂日記」の大正13年から1年余の大久保・百人町の借家暮しを読んでいるが、現在のコリアンタウンと化した大久保からは想像もできぬ良き時代。彼の「半七捕り物帳」の「津の国屋」は、崩れた島田髷に白地に「撫子」の浴衣の娘にゾッとするところから事件が始まる。岡本綺堂の怪談好みから言えば「かさね」は「累(かさね)ヶ淵」となる。岩波文庫「おくのほそ道」収録の「奥細道菅菰抄」にも「鬼怒川の与左衛門が妻、かさねと云しは~」と怪談に誘う注あり。

 季語は撫子で夏。江戸時代は朝顔と同じく「変わり撫子」作りも盛んだったとか。そこで<なでしこは二重八重やの累(かさね)あり>と詠んでみた。川柳なら<なでしこが無能政治を忘れさせ>。おぉ、其角と共に江戸を代表する俳人・松倉嵐蘭(とぼけているねぇ、ランランだって)に<撫子にふんどし干すや川あがり>がある。

 なお写真は岡本綺堂が大正13年に住んでいた辺り。突き当りが戸山ヶ原でその左角が綺堂宅。今はバイク作家の戸井十月宅があった。綺堂宅の隣が同じく作家の国枝完二の家だったそうだが、日記には「隣家の宮崎君方」とある。江藤淳もたしかこの辺の生まれ。綺堂が越してきた大正13年には戸山ヶ原に「アパッチゴルファー」が出没。マイカテゴリーに「大久保」を追加して調べましょうか。


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