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芋坂の團子頬張り明治かな [幕末維新・三舟他]

goindennozu_1.jpg 「子規庵」から日暮里方面に歩くと薬王寺跡があり、芋坂際に「羽二重団子」があった。薬王寺跡に「御隠殿跡」の史跡案内板があって、ここは輪王寺宮の別邸とあった。「おぅ、彰義隊に擁立された宮様じゃないか」。最後の輪王寺宮(日光輪王寺、浅草寺、上野寛永寺の山主)は、後の北白川宮能久親王。当ブログ<幕末維新・三舟他>で、その数奇な人生をちょっとクローズアップしたことがある。

 「あぁ、こんな所に別邸を持っていたんだぁ」。史跡には写真の「御隠殿の図」があった。今は暗渠の音無川から谷中の崖に向かって描かれた図。この絵を持って谷中側に向けば、三千数百坪の当時の様子が伺える。右端に「芋坂」、左端に「御隠殿坂」が描かれている。輪王寺宮は「御隠殿坂」を経て上野寛永寺の本坊(現・東京国立博物館辺り)と行き来したのだろう。

 芋坂際の音無川のほとりに文政二年から営業していたのが「羽二重団子」。子規は<芋坂の團子屋寝たりけふの月>などを詠んでいる。森まゆみ著「彰義隊遺聞」には同店主人の、次のような話が記されていた。「上野戦争当日、家人は店を閉めて避難していたが、帰ってみるとお山から逃げた彰義隊が食糧を取り、家の野良着に着替えて落ちのびた様子。店にある槍や刀は、彼らが邪魔だと置いて行ったものです」

 あたしは525円のお茶と團子のセットをいただきつつ、慶応4年=明治元年の彰義隊を想った。この時に「御隠殿」も焼けたそうな。<芋坂の團子頬張り明治かな>


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