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京伝の机碑恋し彼岸かな [大田南畝(蜀山人)関連]

kyodentukue1_1.jpg 「子規庵」から、再び言問通りに戻って浅草へ走った。目指すは浅草神社脇の「山東京伝の机塚」。あぁ、なんと哀しや、駐車場に邪魔な杭でも建っているような、ぞんざいな感じであった。京伝については、このカテゴリーで、すでに登場済。

 この机塚は文化13年(1816)、56歳没の翌年に弟・京山が建立。史跡案内板通り、表面に京伝による「書案之紀」が刻まれている。書案=机。「9歳の時に寺子屋に入った際に、親が買ってくれた天神机で、これを生涯愛用して百部を越える戯作を書いた。50年も使ったのでゆがみ、老い込んださまも哀れだ」の文に、狂歌<耳もそこね あしもくじけて 世にふる机 まれも老たり>と詠まれている。裏面には常に京伝を引き立て続けた大田南畝による京伝略歴が刻まれていた。

 京伝の最初の妻は、吉原の遊女・お菊さんで3年で病死。40歳になった7年後に同じく吉原・玉屋の「玉の井(百合さん)」23歳を落籍。二人は仲睦まじく、京伝はその後に遊里に足を踏み入れなかったとか。小池藤五郎著「山東京伝」によると「机塚の落成は、旧友を塚のほとりの茶屋に招き、供養の宴がはられた。京山が中心になっているが、未亡人の夫恋しさの現われで、費用は全部、京伝の遺産から出された。百合さんにとって京伝は夫・父・恋人の存在」だったと書かれていた。百合さんは翌年に恋しさの余り狂死。

<京伝の机碑恋し彼岸かな>

 子規の机には立て膝の凹みが細工されていて、常に妹・律が傍にいた。京伝の机には両親の愛情が満ち、手鎖50日の刑を励ましたお菊さんが、円熟期を支えた百合さんが傍にいた。


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