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白蓮の筆一本で冬を耐へ(白蓮4) [読書・言葉備忘録]

harukomanikki_1.jpg 佐藤春夫邸に行く前に、宮崎邸に逃げ込んだ吉原・長金花の春駒こと森光子の「春駒日記」を読んだので、(白蓮4)として同著「廓を脱出して白蓮夫人に救わるるまで」の章を紹介。

 春駒は「苦界=生地獄」の日々に、白蓮が次々に発表する歌や原稿に希望と励みを抱いていた。梅毒と肺病と心臓病で吉原病院に二ヶ月半入院。母の危篤で故郷に戻るも、娼妓の身ゆえ葬儀に出ることままならず。再び廓の日々から遂に脱出決行。吉原病院での隔日注射の際に龍泉寺通り~路面電車~上野~省線で目白駅下車。五、六人に道を尋ねて白蓮邸へ走った。

 対応に戸惑った宮崎夫妻だったが、居合わせた岩内が「労働運動のつらさにくらべたら、あなたを救うことは何でもありません」と助け舟。同書には当時の新聞切り抜きも掲載で、以下は大正15年4月27日の東京朝日新聞より。

 「二十六日の午前十時半頃、折からのしう雨(驟雨)をついて一台のほろを深くした車が突然宮崎家の門に着いた」。本人記述は徒歩だが、新聞は人力車。大阪の朝日新聞は「東京目黒の~」。当時の新聞の信ぴょう性を疑うが、先を続ける。「来合せたのが龍介の友人で労働総同盟の紡績組合長・岩内善作氏であった。夫妻の打ち明け話と春駒の涙ながらの話を聞いた岩内氏はよし僕が立派に廃業させてやらうと引き受け即座に春駒に命じて日本堤警察署あての自由廃業届と楼主あての手紙を書かせ~」

 また昭和2年1月15日の東京朝日新聞も掲載。これは春駒にならって今度は「千代駒」が吉原を脱走し、芝公園の日本労働合同組合本部で重要会議中の岩内氏のもとに助けを求めた記事。

 話をちょっと戻す。白蓮は蟄居先で関東大震災に遭った。その避難先に宮崎滔天の門下生が火のなかをくぐり抜けて握り飯と衣類を持って参上。白蓮を預かる中野家はこれに感動し、白蓮を龍介の許に帰した。この頃の龍介は結核再発で病臥。白蓮はひたすら原稿を書きまくって生活を支えた。この大量露出の原稿が、廓の春駒にも届いたのだろう。当時の宮崎邸には官憲から逃げた運動家や、自由廃業を目指す吉原の娼妓たち大勢の食客がいて、白蓮の筆一本で支えられていたとか。白蓮の項これにて終わり。★参考は永畑道子「恋の華」(藤原書店)、80年振りの復刻で朝日文庫刊の森光子「春駒日記」より。


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