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紀伊新宮と大久保の糸(佐藤邸6) [佐藤春夫関連]

bungalow_1.jpgisakubungalow_1.jpg 明治38年、伊作はシンガポール半年の滞在から帰国すると、新宮の丘に日本初の「バンガロー風の家」を建てた。その写真を「愉快な家~西村伊作の建築」より(田中修司氏所蔵の「美しき住宅」の表紙に添えられたバンガロー住宅」。※無断転載ごめんなさい。)で見ると、これが、まぁ、あたしの伊豆大島の海小屋(写真下)にそっくりで、思わず笑ってしまった。

 伊作が日本初のバンガローを建てた翌年10月、伊作の叔父・誠之助が大久保・百人町の幸徳秋水宅を訪ねている。「ありゃ、また大久保だ!」。幸徳は同年6月に米国から帰国し、9月20日から百人町1-8-24で「平民新聞」の準備に入っていた(芳賀善次郎著「新宿の散歩道」)。同地は旧職安通りのコリアンタウン外れの長光寺脇。ちなみに同寺は島崎藤村が生活苦で三人の子を失い(明治38・39年)、また夫人を葬った(明治43年)墓地で、お墓は大正期に故郷・長野に移葬。昭和26年に野田宇太郎が「新東京文学散歩」執筆時に同寺を訪ね、住職が島崎藤村を知らぬも、過去帳をひもといて三人の子、妻の埋葬記録を探り出している。

 明治40年1月には堺利彦が「平民新聞」創刊号の編集を終えると、刷り上がりを待たず二日を要して新宮の誠之助を訪ねた。きっと印刷代の金策らしく、誠之助は100円を渡している。そして幸徳秋水は同年10月に高知県中村町に帰郷し、翌41年7月末の上京途中で新宮・誠之助宅に半月滞在。8月15日から大久保は北新宿1-30-25(大久保駅から小滝橋通りを越え、さらに直進して右側辺り)に住んだ。後に佐藤春夫も大久保に住んだことを含めて、紀伊・新宮と大久保には、なにやら見えない糸がありそうな。

 この頃だろうか、佐藤春夫は新宮中学五年生で、誠之助の助力で与謝野寛、石井柏亭、生田長江らを招いて夏休みに「学術演説会」を開催。春夫は演説で“虚無思想”や“教育の害”などを口走って、社会主義者とみなされて「無期停学」通知。これは不当弾圧だと誠之助はじめが猛抗議して、無事に卒業している。誠之助が幸徳らと危険な親交を深めるなか、伊作は明治40年に津越光恵と結婚。コテージを丘から移築し、二階建てに直して欧米風家庭生活を開始。

 そして明治43年、大石誠之助は「大逆事件」で「紀州グループ」首魁(しゅかい)者として逮捕、東京に連行。伊作は弟・真子が米国から持ち帰ったバイクを神戸まで運んで、ここから毛皮のコート姿でバイク激走で上京。しかしピストル所持で29日間も拘置されている。翌44年、「大逆事件」の12名処刑。佐藤春夫は「スバル」に「愚者の死」と題する風刺詩で「新宮の町は恐懼(きょうく:おそれかしこまる)した」と書いた。

 大正4年、伊作は「スイスのシャレ―風」本格洋館を完成。この伊作邸は、やがて東京からの文化人も集うサロンとして活況を呈し、若い佐藤春夫は毎日のように伊作邸の食卓の一員になって彼らの話に耳を傾けていたという。ここで聞いた話や体験が「西班牙犬の家」「美しい町」「F・O・U」などの小説に昇華。伊作もまた大正8年の初著作「楽しい住家」で脚光を浴びる。やっと奇妙な佐藤邸の謎に近づいて来たような気がする。(続く)


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