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小島キヨ(1)中村彝のモデルになる [読書・言葉備忘録]

isuniyoreru_1.jpg 伊藤野枝は夫・辻潤と長男(辻まこと)、次男を置いて大杉栄の許に走った。大杉との間に五人の子をもうけ、大正12年の関東大震災直後に甘粕憲兵大尉(軍)に虐殺された。妻に去られた辻潤は、放浪・隠遁者のように暮していたが、ダダイストとして翻訳、エッセイ出版などで注目を浴び、蒲田の松竹撮影所裏の長屋に落ち着いた。そこに転がり込んできたのが小島キヨで、辻潤の三男・秋生を産んだ。

 彼女は広島の洋服屋の娘で、大正9年に師範学校卒。小学校教員になるも二ヶ月で辞め、小説を書きたいと上京した。林芙美子や平林たい子が上京する2年前のこと。神近市子が「日陰の茶屋」で大杉を刺した刑で出所の1年前。神近の出所を迎えたひとりにエロシェンコがいて、小島キヨは上京した大正9年に中村彝(つね)の「椅子によれる女」(写真)のモデルになり、その秋に彼は「エロシェンコ氏の像」を描いた。

 大正時代は、その時代性なのか、振り返る距離がほどよいのか、そこに生きた人々の人生の複雑な絡み合いが、多彩な織物の糸のように実によく見えてくる。倉橋健一著「辻潤への愛」は、小島キヨの丁寧かつ誠実な評伝で、そこから彼女の紆余曲折の人生をほぐし出してみた。

 小島キヨは、上京するとまず谷中の「宮崎モデル紹介所」に行った。同所については種村季弘編「東京百話」より勅使河原純「裸体画の黎明」(日経)に詳しい。「そこは谷中大通りの一乗寺の先の床屋の細い道をウネウネ(通称モデル坂)と上がった突き当り左側の平屋。土間から和室に上がると、そこがモデル選定場で5、60人のモデルと2、30人の作家で身動きできぬほど繁盛していた。(中略)。お菊さんと旦那・幾太郎が仕切っていて、裸体半日45銭、着衣25銭。モデルは紹介所に1人1週間10銭を払うシステム。モデルは常時百数十人。お菊は月8、90円は稼いでいた」。

 小島キヨは何人かの画家のアトリエに通った後で、下落合の中村彝のアトリエに行った。彼はすでに病魔に侵されていて「モデル紹介所」に行けぬ。そこでモデル数人が出向いてキヨが選ばれた。キヨは容貌に劣等感を持っていたが、豊満さと白い肌が自慢。中村彝がそれまで多数の半裸像を描き、結婚を望むも親に反対された中村屋の娘・相馬俊子の豊満な身体に似ていた。俊子がボースと結婚の報に、再び傷心の彼にキヨの身体は眩しかったろう。1週間通って「椅子によれる女」が完成。

 着衣だが俊子の絵と同じくルノアール風タッチ。中村彝はその秋に名作「エロシェンコ氏の像」を描き終えた夜から絶対安静。逝ったのはその4年後、38歳だった。(鈴木秀枝著「中村彝」より)。

 余談1:その下落合のアトリエは目下、新宿区が保存計画中。 余談2:淡谷のり子が、同モデル紹介所を訪ね、裸婦モデルを始めたのは、その数年後と思われる。あたしは20代の終わり頃、池袋のキャバレーに出演の淡谷のり子を取材したことがある。エレベーターの中で「女は下着におしゃれをするのよ」と耳元でささやいたのを、今も覚えている。(小島キヨの項、まだ続く)。


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